漢書卷九 元帝紀第九 元帝

孝元皇帝、諱は奭。宣帝の太子で母は共哀許皇后(前74–前33年)。柔仁にして儒を好み、儒生を重用したが優柔で決断に乏しく、宦官弘恭・石顕らの専権を招いた。宣帝の業を継ぐには至らなかったが、匈奴の呼韓邪単于に王昭君を降嫁させ辺境を安定させた。

年表(12件)

出自と生い立ち

  • 孝元皇帝(諱は奭)は宣帝の太子。母は共哀許皇后。宣帝が微賤であった時に民間で生まれ、二歳の時に宣帝が即位、八歳で皇太子となった。
  • 壮年になり柔仁にして儒を好んだ。宣帝が任用する多くが文法吏で刑名で臣下を統制し、大臣の楊惲・蓋寛饒らが刺譏の言により誅されたのを見て、侍燕の際「陛下は刑を用いること深きに過ぎる、儒生を用いるべき」と諫めたところ、宣帝は色を作して「漢家は自ずと制度あり、本より覇道王道を雑えて用いる。どうして純粋に周の徳教のみに任せられようか。俗儒は時宜に達せず古を是とし今を非とし、名実を眩惑させる、任用するに足りない」と述べ、「わが家を乱す者は太子であろう」と嘆じた。これにより太子を疎んじ淮陽王(母張婕伃、法に明るく宣帝に似ると評された)を寵愛したが、太子が微賤の頃から許氏と苦楽を共にした縁から、ついに廃立には至らなかった。
  • 黄龍元年十二月、宣帝崩。癸巳、太子が皇帝に即位、高廟に謁し、皇太后を太皇太后、皇后を皇太后と尊んだ。

初元元年(前前48年)

  • 春正月辛丑、孝宣皇帝を杜陵に葬る。諸侯王・公主・列侯・吏に金銭帛を賜い大赦。三月、皇太后の兄王舜を安平侯に封じ、丙午、皇后王氏を立てる。三輔太常郡国の公田・苑を貧民に振業。外祖父の同産弟許嘉を平恩侯に封ずる(許広漢の後を奉じさせる)。
  • 夏四月、地震が続くことを憂い、光禄大夫襃ら十二人を天下に遣わし耆老鰥寡孤独を存問させ風俗を観察させる詔。関東の不作により被災郡国の租賦を免除、江海陂湖園池を貧民に貸与。宗室・三老・孝弟力田・鰥寡孤独に爵帛牛酒を賜う。六月、疾疫により大官の膳・楽府員を減らし苑馬を放ち窮乏を救う。秋八月、上郡属国の降胡万余人が匈奴に亡入。九月、関東郡国十一が大水で饑饉、人が相食むほどとなり、他郡の銭穀を転じて救う詔。宮館の不要な修繕を止め、太僕・水衡の馬・獣食を減らす。

初元二年(前前47年)

  • 春正月、甘泉に行幸し泰畤を郊祀、雲陽の民に爵・牛酒を賜う。弟の劉竟を清河王に立てる。三月、広陵厲王太子劉覇を王に立てる。黄門の乗輿狗馬・水衡の禁囿宜春下苑・少府佽飛外池・厳籞池田を廃し貧民に仮貸する詔。天地の災異が連年止まないことを憂い、二月戊午の隴西郡地震(太上皇廟殿・豲道県の城郭官寺・民屋が壊れ人が圧死)を述べ、被災郡国の租賦を免除、大赦、蠲除できることを条奏させ、丞相御史中二千石に茂材異等・直言極諫の士を挙げさせる詔。
  • 夏四月丁巳、皇太子(成帝)を立て、御史大夫・中二千石以下・天下の父後たる者・列侯に爵銭を賜う。六月、関東で饑饉、斉地では人が相食む。秋七月、災害続きで菜色の民を憂い倉廩を開き寒者に衣を賜う詔だが、なお地震・水害が続き公卿に過失を問う。冬、国の興隆には師傅を重んずるとして前将軍蕭望之に爵関内侯・食邑八百戸を賜う詔。十二月、中書令弘恭・石顕が蕭望之を譖して自殺させる。

初元三年(前前46年)

  • 春、諸侯(王)の相の位を郡守の下とする。珠厓郡山南県が反乱、待詔賈捐之は珠厓放棄・民の饑饉救済を献策、珠厓を廃す。夏四月乙未晦、茂陵の白鶴館が火災、これを己の不徳とし羣臣の極言を求める詔。夏、旱。長沙煬王の弟劉宗を王に立て、故海昬侯賀の子代宗を侯に封ずる。六月、隂陽錯謬・風雨不時を憂い、群公の直言を求めるも媮合苟従で極言する者がないことを嘆く詔。甘泉建章宮の衛を罷め農に就かせ、百官に費用の省減を命じ、丞相御史に隂陽災異に明るい者各三人を挙げさせる。

初元四年(前前45年)

  • 春正月、甘泉に行幸し泰畤を郊祀。三月、河東に行幸し后土を祠る。汾隂の徒を赦し民に爵・牛酒・帛を賜う。

初元五年(前前44年)

  • 春正月、周子南君(姫延年)を周承休侯とし諸侯王に次ぐ位を与える。三月、雍に行幸し五畤を祠る。夏四月、星孛が参に現れ、官人の位が久しく空き元元が失望していることを憂う詔。大官の日殺を減らし、乗輿の秣馬も正事以外は行わず、角抵を罷め、上林宮館の不要な修繕を止め、斉の三服官・北仮田官・塩鉄官・博士弟子の員数制限を廃し学ぶ者を広げる。宗室・三老・孝弟力田・鰥寡孤独に馬・帛・牛酒を賜う。刑罰七十余事を省き、光禄大夫以下郎中まで父母同産の連坐令を除く。従官で宮司馬中に給事する者に大父母父母兄弟の通籍を許す。冬十二月丁未、御史大夫貢禹卒。衛司馬谷吉、匈奴への使いから不帰。

永光元年(前前43年)

  • 春正月、甘泉に行幸し泰畤を郊祀、雲陽の徒を赦し民に爵・牛酒・帛を賜う。二月、丞相御史に質樸敦厚遜譲有行の者を挙げさせ、光禄が毎年この四科で郎従官を評定する制を定める。三月、五帝三王が賢を任じ能を使ったことを引き、今治まらぬのは己の不明が咎であるとして大赦、農桑に励ませ田のない者に貸与、吏に爵を賜う。この月、雨雪により霜が麦稼を傷つける。秋、収穫なし。

永光二年(前前42年)

  • 春二月、唐虞の象刑・殷周の法行を引き、公卿大夫が隂陽を軽んじ奏請が時政に違うことを憂う詔。大赦、民に爵・帛・牛酒を賜い、諸侯王・公主・列侯・中二千石以下に金銭を賜う。三月壬戌朔、日食。戦戦兢兢として過失を思うも効なきを憂い、内郡国に茂材異等賢良直言の士を挙げさせる詔。夏六月、連年の不作により民が困窮していることを憂い大赦。秋七月、西羌反乱、右将軍馮奉世を遣わし撃たせる。八月、太常任千秋を奮威将軍とし五校を別将させ並進。

永光三年(前前41年)

  • 春、西羌平定、軍罷す。三月、皇子康を済陽王に立てる。夏四月癸未、大司馬車騎将軍王接薨。冬十一月、地動・仲冬の雨水大霧・盗賊並起を憂い対応を問う詔。冬、塩鉄官・博士弟子員を復し、民多くを復除により、中外の徭役に給する財源がなくなる。

永光四年(前前40年)

  • 春二月、婁ば凶咎に遭い辺境不安・師旅在外・賦斂転輸による民の騒動を憂う詔、大赦、貸与した貧民の負債を免除。三月、雍に行幸し五畤を祠る。夏六月甲戌、孝宣園東闕が火災。戊寅晦、日食。明王の治世を範とし、政令が民心を得ていないことを憂う詔で、公卿大夫に身を慎み天戒を思うことを求める。九月戊子、衛思后園・戾園を廃す。冬十月乙丑、郡国にある祖宗廟を廃し、諸陵をそれぞれ三輔に属させる。渭城寿陵亭部の原上を初陵とする。安土重遷の民情を思い、園陵のため民を徙すことによる離散を憂い、初陵には県邑を置かず徙民をしないとする詔。先后の父母の奉邑も廃す。

永光五年(前前39年)

  • 春正月、甘泉に行幸し泰畤を郊祀。三月、河東に行幸し后土を祠る。秋、潁川で水害、被害の吏・従官には休暇を与え士卒を帰す。冬、長楊に行幸し射熊館で大狩猟。十二月乙酉、太上皇・孝恵皇帝の寝廟園を廃す。

建昭元年(前前38年)

  • 春三月、雍に行幸し五畤を祠る。秋八月、白蛾の群れが東都門から枳道まで日を蔽う。冬、河間王元、罪により房陵に遷される。孝文太后・孝昭太后の寝園を廃す。

建昭二年(前前37年)

  • 春正月、甘泉に行幸し泰畤を郊祀。三月、河東に行幸し后土を祠る。三河の大郡太守の秩を戸十二万で大郡とする。夏四月、大赦。六月、皇子興を信都王に立てる。閏月丁酉、太皇太后上官氏崩。冬十一月、斉楚地震・大雨雪で樹折れ屋壊れる。淮陽王の舅張博・魏郡太守京房、諸侯王に邪意を漏泄した罪で張博は要斬、京房は棄市。

建昭三年(前前36年)

  • 夏、三輔都尉・大郡都尉の秩を皆二千石とする。六月甲辰、丞相韋玄成薨。秋、使護西域騎都尉甘延寿・副校尉陳湯、矯って戊巳校尉の屯田吏士及び西域胡兵を発し郅支単于を攻める。冬、その首を斬り京師に伝え蛮夷邸門に懸ける。

建昭四年(前前35年)

  • 春正月、郅支単于誅滅を郊廟に告げ大赦、群臣が寿を上る。夏四月、先帝の休烈を承けるも隂陽不調・五行失序・百姓饑饉を憂う詔、諫大夫博士賞ら二十一人を天下に遣わし耆老鰥寡孤独を存問、茂材特立の士を挙げさせる。六月甲申、中山王竟薨。藍田で地滑り、霸水・安陵の岸が崩れ涇水が逆流。

建昭五年(前前34年)

  • 春三月、明王の治国は好悪を明らかにし譲を崇ぶとする詔、大赦、民に爵・牛酒・帛を賜う。農桑の時を妨げる小罪の追及を戒める詔。夏六月、戾園を復す。壬申晦、日食。秋七月、太上皇寝廟園・原廟・昭霊后・武哀王・昭哀后・衛思后園を復す。

竟寧元年(前前33年)

  • 春正月、匈奴呼韓邪単于来朝。郅支単于の背叛と誅罰、呼韓邪単于の恩徳を忘れぬ姿勢を述べ、辺境永く兵革なきを期し改元して竟寧とする詔。単于に待詔掖庭の王嬙(字は昭君)を閼氏として賜う。皇太子冠す。列侯嗣子に爵五大夫、天下の父後たる者に爵一級を賜う。二月、御史大夫繁延寿卒。三月癸未、孝恵皇帝寝廟園・孝文太后・孝昭太后寝園を復す。夏、騎都尉甘延寿を列侯に封じ、副校尉陳湯に関内侯・黄金百斤を賜う。
  • 五月壬辰、帝は未央宮に崩ず(二十七歳で即位、在位十六年、享年四十三)。太上皇・孝恵・孝景皇帝廟を毀ち、孝文・孝昭太后・昭霊后・武哀王・昭哀后の寝園を廃す。秋七月丙戌、渭陵に葬る。

史論

  • 賛(班固)にいう。臣(班固)の外祖の兄弟は元帝の侍中を務め、臣に語るには、元帝は多材多芸で史書に通じ、琴瑟を鼓し洞簫を吹き、自ら曲を作り歌に合わせ、節度を分かちごく細やかな妙技を極めたという。若くして儒を好み、即位すると儒生を徴用し、貢禹・薛広徳・韋賢・匡衡が交々宰相となった。しかし上(元帝)は文義に牽制されて優柔不断となり、孝宣の業を衰えさせた。とはいえ寛弘にして下に尽くし、恭倹より出て、号令は温雅で古の風があった。