漢書卷八 宣帝紀第八 宣帝
孝宣皇帝、諱は詢(初名は病已)。武帝の曾孫、戾太子の孫(前91–前49年)。巫蠱の獄で家族を失い幼くして獄に繋がれたが丙吉に助けられ、民間で育つ。昭帝崩後、霍光により迎え立てられて即位。霍氏一族の専横を除いて親政を行い、信賞必罰の治で漢の中興と称された。
年表(15件)
- 元平元年(前)前74年昭帝崩御を受け、霍光の奏により迎立され即位する
- 出自と生い立ち巫蠱の獄で戾太子一族が害され、幼くして郡邸獄に繋がれる
- 出自と生い立ち丙吉に救われ、掖庭で養育される
- 地節二年(前)前68年大司馬大将軍霍光が薨じ、宣帝が親政を始める
- 地節三年(前)前67年皇太子(のちの元帝)を立てる
- 地節四年(前)前66年霍禹ら霍氏一族の謀反が発覚し誅される、皇后霍氏が廃される
- 元康二年(前)前64年諱を「病已」から「詢」に改める
- 元康三年(前)前63年故昌邑王賀を海昬侯に封じる
- 神爵元年(前)前61年西羌の反乱に対し趙充国・許延寿を遣わし討伐する
- 神爵二年(前)前60年匈奴の日逐王が衆万余人を率いて降る
- 五鳳三年(前)前55年匈奴で内乱が起こり五単于が相攻める
- 甘露三年(前)前51年匈奴呼韓邪単于が来朝し藩臣を称する
- 甘露三年(前)前51年諸儒に五経の同異を講じさせ、梁丘易・大小夏侯尚書・穀梁春秋の博士を立てる
- 黄龍元年(前)前49年匈奴呼韓邪単于が再び来朝する
- 黄龍元年(前)前49年未央宮で崩じる(在位二十五年、享年四十三)
出自と生い立ち
- 孝宣皇帝(諱は詢、初名は病已)は武帝の曾孫、戾太子の孫。父は史皇孫、母は王夫人。
- 誕生後まもなく巫蠱の獄が起こり、戾太子・良娣・史皇孫・王夫人はみな害された。曾孫(後の宣帝)は幼くして郡邸獄に繋がれたが、廷尉監の丙吉が憐れみ、女徒の淮陽の趙徴卿・渭城の胡組に乳養させ、私財で衣食を給した。
- 後元二年、武帝の病により望気者が「長安獄中に天子の気あり」と言い、内謁者令郭穰が中都官の獄囚を軽重を問わず皆殺す命で郡邸獄に至ったが、丙吉が門を閉ざして拒み、曾孫は難を免れた。折しも大赦があり、丙吉は曾孫を祖母史良娣の家に送った。
- 詔により掖庭で養育され、宗正に属籍が置かれた。掖庭令張賀が戾太子への旧恩を思って厚く世話し、私財で学問を授けた。壮年になり暴室嗇夫許広漢の娘を娶った。
- 東海の澓中翁に詩を学び、材に優れ好学だったが、任侠も好み鬭鶏・走馬をたしなみ、民間の実情・吏治の得失に通じ、三輔をめぐり歩いた。蓮勺の鹵中で困窮したこともあり、杜・鄠の間を好み、多くは下杜にいた。会朝請のたびに長安の尚冠里に宿った。
- 元平元年四月、昭帝崩じ嗣なく、大将軍霍光が皇后に奏して昌邑王を迎えた。六月丙寅、王は璽綬を受け皇太后を尊んだが、癸巳、霍光は王賀の淫乱を理由に廃位を奏請。秋七月、霍光は「大宗に嗣なければ支子孫の賢者を択ぶ」との礼により、武帝の曾孫病已(宣帝)を推挙。掖庭で養われ十八歳、詩・論語・孝経を学び操行節倹・慈仁愛人であるとして迎立を奏し、可とされた。
- 曾孫は尚冠里の舎で沐浴を賜り御府の衣・軨獵車を賜って迎えられ、齊宗正府に至り、庚申に未央宮に入って皇太后に謁し、陽武侯に封ぜられた(庶人から直ちに天子とすることを避けるため先に侯とした)。ついで群臣が璽綬を奉じて即位、高廟に謁した。八月己巳、丞相楊敞(諱を避けず本名で表記)薨去。九月大赦。十一月壬子、皇后許氏を立てる。諸侯王以下吏民鰥寡孤独に金銭を賜う。皇太后は長楽宮に帰り、屯衛を初めて置いた。
本始元年(前前73年)
- 春正月、貲百万以上の郡国吏民を募って昭帝陵の平陵に徙す。郡国二千石に牧養・風化を命じる詔。
- 大将軍霍光が政を帰そうとしたが宣帝は謙譲して委任。定策の功により霍光の封邑を一万七千戸増し、車騎将軍光禄勲富平侯張安世に一万戸を加える。
- 丞相楊敞ら定策に功のあった諸臣(丞相の子忠、丞相蔡義、度遼将軍范明友、前将軍韓増、太僕杜延年、太常蘇昌、諫大夫王譚、当塗侯魏聖〔父魏不害〕、杜侯屠耆堂、長信少府夏侯勝ら)に封戸・爵位(多くは関内侯)を賜う。田広明・趙充国・田延年・史楽成・王遷・周徳・蘇武・李光・劉徳(楚元王の曾孫)・韋賢・宋畸・丙吉ら十数名にも関内侯を賜い、蘇武・劉徳には特に食邑を許した。
- 夏四月、地震により内郡国に文学高第を挙げさせる。五月、鳳皇が膠東・千乗に集まり大赦、吏・諸侯相以下中都官に至るまで爵を賜う。
- 左更から五大夫までの爵を天下の人に一級、孝者二級、女子には百戸ごとに牛酒を賜い租税を免除。
- 六月、故皇太子(戾太子)の諡・園邑を議す詔。秋七月、燕刺王太子建を廣陽王に、廣陵王胥の少子弘を高密王に立てる。
本始二年(前前72年)
- 春、水衡銭で平陵に第宅を起こし民を徙す。大司農田延年、増賦の罪で自殺。
- 夏五月、匈奴を討伐した武帝の功徳を称え、太学を建て郊祀を修め正朔を定め音律を協え泰山に封じ宣房の決河を塞いだことを述べる詔。孝武廟を世宗廟と改め尊号、盛徳文始五行の舞を奏し巡狩の郡国すべてに廟を立てさせる。民に爵一級、女子に百戸ごとに牛酒を賜う。
- 匈奴が西の烏孫を伐ち、烏孫昆弥・公主が救援を求めたため、秋、関東の軽車鋭卒・三百石以上の吏を発し、御史大夫田広明を祁連将軍、後将軍趙充国を蒲類将軍、雲中太守田順を虎牙将軍とし、度遼将軍范明友・前将軍韓増と合わせ五将軍・兵十五万騎、校尉常惠が節を持し烏孫兵を護って匈奴を撃つ。
本始三年(前前71年)
- 春正月、皇后許氏崩。五将軍出撃。夏五月、軍罷す。祁連将軍田広明・虎牙将軍田順は罪により自殺。校尉常惠は烏孫兵を率い匈奴右地に大勝、列侯に封ぜられる。大旱により被災郡国は租賦を免除。六月、丞相蔡義薨。
本始四年(前前70年)
- 春正月、不作を憂い太官の膳・楽府の楽人を減らす詔。丞相以下都官令丞に穀物献納を促し貧民を助貸。三月、皇后霍氏を立て、丞相以下に金銭帛を賜い大赦。
- 夏四月、郡国四十九で地震、山崩れ水湧く。丞相御史・列侯・中二千石に博く経学の士を問わせ災異への対応を求める詔。三輔太常内郡国に賢良方正を挙げさせ、被災の甚だしい者には租賦を免除、大赦。宗廟の毀損により宣帝は素服して正殿を避けること五日。五月、鳳皇が北海の安丘・淳于に集まる。秋、広川王吉が罪により房陵に遷され自殺。
地節元年(前前69年)
- 春正月、星孛(彗星)が西方に現れる。三月、郡国の貧民に仮田。夏六月、堯が九族を親しんだ故事を引き、宗室で罪により属籍を絶たれた者も改行あれば復属を許す詔。冬十一月、楚王延寿、謀反により自殺。十二月癸亥晦、日食。
地節二年(前前68年)
- 春三月庚午、大司馬大将軍霍光薨。宿衛の功を称え、その後裔の爵邑を減らさず世々続けることを許す詔。夏四月、鳳皇が魯郡に集まり大赦。五月、光禄大夫平丘侯王遷、罪により下獄死。宣帝は親政を始め、霍山(霍光の兄の孫)に尚書事を領させつつ、群臣に封事を奏させ五日に一度聴政、丞相以下に奏事させ考課する体制を整える。
- 三年(原文どおり続けて年内の記事として)膠東相王成の流民招撫の功を称え中二千石に進め関内侯を賜う詔(※原文はここで「三年」と改行するため以下年を改める)。
地節三年(前前67年)
- 春三月、有功不賞・有罪不誅では天下を化すことができないとして、膠東相王成が流民八万余口を自占させた功により中二千石に進め関内侯を賜う。鰥寡孤独高年に加賜。
- 夏四月戊申、皇太子(後の元帝)を立て大赦。御史大夫・中二千石に爵を賜い、天下の父後たる者に爵一級、広陵王に黄金千斤、諸侯王十五人に各百斤、在国の列侯八十七人に各二十斤を賜う。冬十月、地震により箴言・賢良方正直言極諫の士を求める詔。車騎将軍・右将軍の屯兵を罷める。流民帰還者には公田・種食を仮貸。十一月、六蓺に暗いことを恥じ賢良方正を挙げさせる詔。十二月、廷尉平四人を初めて置く。
地節四年(前前66年)
- 春二月、外祖母を博平君に封じ、蕭何の曾孫蕭建世を侯とする。喪に服す者は徭役を免除する詔。夏五月、首匿(親族をかくまう罪)を大幅に減免する詔。広川恵王の孫劉文を広川王に立てる。秋七月、大司馬霍禹が謀反を企てたとして詔で糾弾――東織室令史張赦・魏郡の李竟が冠陽侯霍雲に大逆を謀らせたと言い、霍禹・その母顕・冠陽侯霍雲・楽平侯霍山ら霍氏一族、度遼将軍范明友・長信少府鄧広漢・中郎将任勝・騎都尉趙平・馮殷らが謀反、かつて顕が女医淳于衍を使い許皇后を毒殺したことも露見し、みな誅に伏す。八月己酉、皇后霍氏廃される。九月、水災被災民の撫恤の詔。十二月、清河王年、罪により房陵に遷される。
元康元年(前前65年)
- 春、杜県の東原上を初陵とし杜陵と改称、丞相・将軍・列侯・吏二千石で資百万以上の者を徙す。三月、鳳皇・甘露の瑞祥を述べ大赦、勤事吏に爵を賜う。夏五月、皇考廟(史皇孫廟)を立て奉明県を置く。高皇帝功臣周勃ら百三十六人の子孫に祭祀を続けさせる。秋八月、六蓺に暗いことを恥じ吏民の中から徳行の士を挙げさせる詔。冬、建章衛尉を置く。
元康二年(前前64年)
- 春正月、文王の刑罰の故事を引き大赦。二月乙丑、皇后王氏(王奉光の女)を立て、丞相以下に金銭帛を賜う。三月、鳳皇甘露の瑞祥により天下の吏民に爵を賜う。夏五月、獄吏の巧言による罪の出入りを戒める詔、被災郡国の租賦を免除。かつての諱「病已」を「詢」に改め、旧諱への触犯罪を赦す。冬、京兆尹趙広漢、罪により要斬。
元康三年(前前63年)
- 春、神爵の瑞祥により諸侯王・丞相・将軍・列侯・二千石以下に金銭・帛・爵を賜う。三月、舜が弟の象を封じた故事を引き、故昌邑王賀を海昬侯に封じる。微賤の時世話になった御史大夫丙吉・中郎将史曾・史元、長楽衛尉許舜、侍中光禄大夫許延寿、故掖庭令張賀(追諡陽都哀侯)らに列侯・官禄・田宅財物を賜う。夏六月、五色の鳥が飛来する瑞祥により三輔の民に春夏の狩猟・巣を荒らすことを禁じる。皇子欽を淮陽王に立てる。
元康四年(前前62年)
- 春正月、八十歳以上の高齢者は誣告・殺傷人以外の罪を問わない詔。太中大夫彊ら十二人を天下に遣わし鰥寡を存問。二月、河東の霍徴史ら謀反により誅。三月、神爵の瑞祥により天下の吏民に爵を賜う。秋八月、故右扶風尹翁帰の子に黄金百斤、功臣の嫡後にも黄金を賜う。丙寅、大司馬衛将軍張安世薨。この年、穀物が豊作で石五銭。
神爵元年(前前61年)
- 春正月、甘泉に行幸し泰畤を郊祀。三月、河東に行幸し后土を祠る。金芝・九真の奇獣・南郡の白虎・威鳳などの瑞祥を述べる詔、天下の勤事吏・民に爵を賜う。西羌反乱により三輔中都官の徒・弛刑・応募の佽飛射士・羽林孤児・胡越騎・諸郡騎士等を発し、夏四月、後将軍趙充国・彊弩将軍許延寿を遣わして西羌を撃つ。六月、酒泉太守辛武賢を破羌将軍に任じ両将軍と並進させる。秋、故大司農朱邑の子に黄金百斤を賜う。趙充国、屯田の計を上言(詳細は充国伝)。
神爵二年(前前60年)
- 春二月、鳳皇甘露降臨の瑞祥により大赦。夏五月、羌の大豪楊玉・酋非を斬り羌を降す。金城属国を置き降羌を処す。秋、匈奴の日逐王先賢撣が衆万余人を率いて降る。都護西域騎都尉鄭吉が日逐を迎え車師を破り、列侯に封ぜられる。九月、司隷校尉蓋寛饒、罪により下獄自殺。匈奴単于が名王を遣わし献上、和親始まる。
神爵三年(前前59年)
- 春、楽游苑を起こす。三月丙午、丞相魏相薨。秋八月、吏の廉平を保つため小吏の俸禄を増す詔(百石以下の俸を十五増す)。
神爵四年(前前58年)
- 春二月、鳳皇甘露の瑞祥により泰一・五帝后土の祠を修め、天下に大赦、民に爵一級・牛酒を賜う。夏四月、潁川太守黄覇、治績卓越により中二千石に進め関内侯・黄金百斤を賜う。潁川の吏民にも爵を賜う。五月、匈奴単于の弟呼留若王勝之来朝。冬十月、鳳皇十一羽が杜陵に集まる。十一月、河南太守厳延年、罪により棄市。十二月、鳳皇が上林に集まる。
五鳳元年(前前57年)
- 春正月、甘泉に行幸し泰畤を郊祀、皇太子冠す。丞相・将軍・列侯・中二千石以下に帛を賜う。夏、杜陵作役の徒を赦す。冬十二月乙酉朔、日食。左馮翊韓延寿、罪により棄市。
五鳳二年(前前56年)
- 春三月、雍に行幸し五畤を祠る。夏四月己丑、大司馬車騎将軍韓増薨。秋八月、婚姻の礼を重んじ苛禁で嫁娶の酒食を禁ずることのないようにとの詔。冬十一月、匈奴の呼遬累単于が衆を率いて降り列侯に封ぜられる。十二月、平通侯楊惲、免官後も怨望・大逆不道として要斬。
五鳳三年(前前55年)
- 春正月癸卯、丞相丙吉薨。三月、河東に行幸し后土を祠る。匈奴の内乱(虚閭権渠単于の死後、屠耆堂〔呼韓邪単于〕擁立をめぐり五単于が相攻め、死者万を数え畜産の耗損甚だしい)を述べる詔。呼遬累単于の一族名王ら五万余人が降り、匈奴が北辺で臣従を称える。三月辛丑、鸞鳳が長楽宮の東闕の樹に集まる瑞祥、天下の口銭を減じ殊死以下を赦し、民に爵一級・牛酒・大酺五日を賜う。西河北地属国を置き降匈奴を処す。
五鳳四年(前前54年)
- 春正月、広陵王胥、罪により自殺。匈奴単于が弟谷蠡王を侍に入れ辺塞の寇を減らし戍卒を十分の二減らす。大司農中丞耿寿昌、常平倉の設置を奏す。夏四月晦、日食。丞相御史掾二十四人を天下に遣わし冤獄を察させる。
甘露元年(前前53年)
- 春正月、甘泉に行幸し泰畤を郊祀。匈奴呼韓邪単于、子の右賢王銖婁渠堂を侍に入れる。二月丁巳、大司馬車騎将軍許延寿薨。夏四月、黄龍が新豊に現れる。太上皇廟・孝文廟が火災、素服五日。冬、匈奴単于弟の左賢王来朝。
甘露二年(前前52年)
- 春正月、皇子囂を定陶王に立てる。黄龍・醴泉の瑞祥により天下大赦、民の算賦を三十減じ、諸侯王・丞相・将軍・列侯・中二千石に金銭を賜う。夏四月、護軍都尉禄を遣わし珠崖を撃つ。秋九月、皇子宇を東平王に立てる。冬十二月、萯陽宮・属玉観に行幸。匈奴呼韓邪単于、五原塞に款じ入朝を願う。有司の議により単于を客礼で待遇し位を諸侯王の上に置く詔。
甘露三年(前前51年)
- 春正月、甘泉に行幸。匈奴呼韓邪単于稽侯狦が来朝、藩臣を称して璽綬・冠帯衣裳・安車駟馬・黄金錦繡等を賜う。単于は建章宮で饗応を受け、二月帰国、長楽衛尉董忠・車騎都尉韓昌・騎都尉虎が万六千騎で単于を送る。単于は光禄城に居し、郅支単于は遠遁、匈奴は定まる。鳳皇の瑞祥により汝南太守に帛を賜い民に爵二級。三月己丑、丞相黄覇薨。諸儒に五経の同異を講じさせ梁丘易・大小夏侯尚書・穀梁春秋の博士を立てる。冬、烏孫公主(解憂)帰国。
甘露四年(前前50年)
- 夏、広川王海陽、罪により房陵に遷される。冬十月丁卯、未央宮宣室閣が火災。
黄龍元年(前前49年)
- 春正月、甘泉に行幸。匈奴呼韓邪単于来朝、礼賜は初回と同様。二月、単于帰国。上古の治世を範とし公卿大夫に寛大な政を行わせる詔――近年、吏が姦邪を禁じないことを寛大とし、酷薄を賢とする風潮を戒め、民の貧窮・盗賊の原因を問う。三月、星孛が王良閣道に入り紫宮に至る。夏四月、廉吏挙用は実を求めるべきとし、六百石以上の吏の挙廉を禁ずる詔。
- 冬十二月甲戌、帝は未央宮に崩ず(十八歳で即位、在位二十五年、享年四十三)。癸巳、皇太后を太皇太后と尊ぶ。
史論
- 賛(班固)にいう。孝宣の治は信賞必罰、名実を綜核し、政事・文学・法理の士がみな能力を尽くし、技巧・工匠・器械に至るまで元帝・成帝の間はこれに及ぶ者が少なかった。吏はよくその職を称え、民は業に安んじた。匈奴の内乱に乗じ「亡を推し存を固くする」(滅びかけた国を助け存立させる)の道を行い、匈奴の信服と威を北夷に及ぼし、単于が義を慕い藩を称するに至った。功は祖宗を光らせ業は後嗣に垂れ、中興と称してよく、徳は殷の高宗・周の宣王に等しいものであった。