漢書卷十 成帝紀第十 成帝

孝成皇帝、諱は驁。元帝の太子で母は王皇后(前51–前7年)。経書を好み容儀を整えた天子であったが、酒色に耽り外戚王氏に国政の実権を委ねた。趙飛燕姉妹を寵愛し嗣子なく世を去り、以後王莽台頭の端緒を開いた。

年表(11件)

出自と生い立ち

  • 孝成皇帝(諱は驁)は元帝の太子。母は王皇后。元帝が太子宮にいた時、甲観画堂で生まれ、嫡孫として宣帝に愛され「太孫」と字された。三歳で宣帝が崩じ元帝が即位、皇太子となる。壮年になり経書を好み寛博謹慎であった。かつて桂宮に居た時、上(元帝)が急に太子を召したが太子は馳道を横切ることを憚り、廻り道をして遅れ、事情を問われて実直に答えたところ元帝は喜び、太子には馳道を横切ることを許す令を出した。
  • のちに酒宴を好むようになり、上(元帝)は太子を有能と見なさず、代わりに材芸ある定陶恭王(母傅昭儀も寵愛される)を嗣とする意向を持ったが、侍中史丹が太子家を護り助力し、また元帝が先帝の特に愛した太子であることを重んじたため廃立には至らなかった。竟寧元年五月、元帝崩。六月己未、太子が皇帝に即位、高廟に謁し、皇太后を太皇太后、皇后を皇太后と尊んだ。元舅の侍中衛尉陽平侯王鳳を大司馬大将軍領尚書事とする。乗輿車牛馬禽獣を葬に用いない礼制を定め、七月大赦。

建始元年(前前32年)

  • 春正月乙丑、皇曾祖悼考廟(宣帝の父史皇孫廟)が火災。故河間王の弟劉良を王に立てる。星孛が営室に現れ、上林詔獄を廃す。二月、右将軍長史姚尹らが匈奴への使いから帰る途中、暴風火災で殺される。諸侯王・丞相・将軍・列侯・王太后・公主・王主・吏二千石以下・宗室・三老・鰥寡孤独に金銭帛牛酒を賜う。火災・彗星を憂い、羣公に寛大和睦を求め大赦する詔。舅の諸吏光禄大夫関内侯王崇を安成侯に封じ、舅の王譚・王商・王立・王根・王逢時に爵関内侯を賜う。夏四月、黄霧が四方に立ちこめ公卿大夫に諮問。六月、無数の青蠅が未央宮殿中に集まる。秋、上林宮館の不要な二十五所を廃す。八月、両月が並んで東方に出現する怪異。九月戊子、流星が地を照らし紫宮を貫く。十二月、長安の南北郊を作り甘泉・汾隂の祠を廃す。大風で甘泉畤の大木を抜く。被災郡国の田租を免除。

建始二年(前前31年)

  • 春正月、雍の五畤を廃す。辛巳、初めて長安南郊で郊祀。泰畤・后土を南郊北郊に移した経緯を述べ、三輔の徭役負担を軽減する詔。奉郊の県(長安・長陵)及び中都官の耐罪徒を赦す。天下の賦銭算を四十に減らす。閏月、渭城延陵亭部を初陵とする。三輔内郡に賢良方正を挙げさせる。三月、北宮の井水が溢れ、辛丑、初めて北郊で后土を祠る。丙午、皇后許氏(許嘉の女)を立てる。六厩技巧官を廃す。夏、大旱。東平王宇、罪により樊・亢父県を削られる。秋、太子博望苑を廃し宗室の朝請者に賜う。乗輿の厩馬を減らす。

建始三年(前前30年)

  • 春三月、大赦、孝弟力田に爵二級、逋租賦・振貸を免除。秋、関内で大水。七月、虒上の小女陳持弓が大水の噂に驚き未央宮の掖門を通り抜け吏民を驚かせる事件。九月、水災を口実にした訛言による吏民の混乱を戒め、苛暴な吏を退け元元の失職者を憂う詔、諫大夫林らを天下に遣わす。冬十二月戊申朔、日食かつ夜に未央宮殿下で地震。天が君に立たしめるという道理を説き公卿に過失を問う詔。丞相御史・将軍列侯・中二千石・内郡国に賢良方正直言極諫の士を挙げさせる。越雋で山崩れ。

建始四年(前前29年)

  • 春、中書宦官を廃す。尚書員五人を初めて置く。夏四月、雨雪。五月、中謁者丞陳臨が殿中で司隷校尉轅豊を殺害。秋、桃李が実を結ぶ異変、大水で河が東郡金隄で決壊。冬十月、御史大夫尹忠、河決に憂職を果たせなかったとして自殺。

河平元年(前前28年)

  • 春三月、河決の被害(兗州・豫州の地が漂流)を述べ、校尉王延世の隄防修復により改元して河平とする詔、天下の吏民に爵を賜う。夏四月己亥晦、日食(皆既)。先帝の業に称うことができないことを憂う詔、公卿大夫に輔弼を求め大赦。六月、典属国を大鴻臚に併合。秋九月、太上皇の寝廟園を復す。

河平二年(前前27年)

  • 春正月、沛郡の鉄官で冶鉄の際の異変(五行志に詳しい)。夏六月、舅の王譚・王商・王立・王根・王逢時をみな列侯に封ずる。

河平三年(前前26年)

  • 春二月丙戌、犍為で地震・山崩れ、雍江の水が逆流。秋八月乙卯晦、日食。光禄大夫劉向、中秘書を校訂。謁者陳農を天下に遣わし遺書を求めさせる。

河平四年(前前25年)

  • 春正月、匈奴単于来朝、大赦、孝弟力田に爵二級、逋租賦・振貸を免除。二月、単于帰国。三月癸丑朔、日食。光禄大夫博士嘉ら十一人を遣わし瀕河の郡を巡行させ、水害の困乏者を賑恤、水死者には槥櫝を給し埋葬、避難者は他郡国で冗食を給する。壬申、長陵臨涇の岸崩れ、涇水が逆流。夏六月庚戌、楚王囂薨。山陽で火が石中から生ずる異変、改元して陽朔とする。

陽朔元年(前前24年)

  • 春二月丁未晦、日食。三月、大赦。冬、京兆尹王章、罪により下獄死。

陽朔二年(前前23年)

  • 春、寒さが続く。堯の羲和の官の故事を引き、隂陽を軽んじる公卿大夫を戒める詔。三月、大赦。夏五月、八百石・五百石の秩を除く。秋、関東で大水、流民が函谷・天井・壺口・五阮関に入るのを苛留せぬよう命じ、諫大夫博士を分遣し視察させる。八月甲申、定陶王康薨。九月、奉使者の職務不履行。太学の意義を説き博士の人選を諮る詔。是嵗、御史大夫張忠卒。

陽朔三年(前前22年)

  • 春三月壬戌、隕石が東郡に八個落下。夏六月、潁川鉄官の徒申屠聖ら百八十人が長吏を殺し庫兵を盗み将軍を称して九郡を経歴、丞相長史・御史中丞を遣わし軍興の法で討伐しみな誅に伏す。秋八月丁巳、大司馬大将軍王鳳薨。

陽朔四年(前前21年)

  • 春正月、洪範八政は食を首とすると述べ、先帝の勧農・租税軽減・力田優遇の政を継ぎ、民が本業(農)を離れ末業に趨ることを戒める詔。二月、大赦。秋九月壬申、東平王宇薨。閏月壬戌、御史大夫于永卒。

鴻嘉元年(前前20年)

  • 春二月、明察の蔽われ刑罰が中らず冤獄が絶えないことを憂う詔。諫大夫理らを遣わし三輔三河弘農の冤獄を挙げさせる。天下の民に爵一級、鰥寡孤独高年に帛を加賜。壬午、初陵に行幸、作徒を赦し、新豊の戯郷を昌陵県として初陵に奉じさせる。上は初めて微行に出るようになる。冬、真定に黄龍現る。

鴻嘉二年(前前19年)

  • 春、雲陽に行幸。三月、博士が飲酒の礼を行う際、雉が庭に飛来し階を歴て堂に登り雊く。のちに諸府・承明殿にも現れる。傅納以言・明試以功の古の選賢の道を説き、招賢の路が塞がっていることを憂う詔、敦厚有行義能直言の者を挙げさせる。夏、郡国の豪傑で貲五百万以上五千戸を昌陵に徙し、丞相御史将軍列侯公主中二千石に冢地第宅を賜う。六月、中山憲王の孫劉雲客を広徳王に立てる。

鴻嘉三年(前前18年)

  • 夏四月、大赦、吏民が爵を買うことを許す(賈は千銭)。大旱。秋八月乙卯、孝景廟闕が火災。冬十一月甲寅、皇后許氏廃される。広漢の鄭躬ら六十余人が官寺を攻め囚徒を奪い庫兵を盗み山君を称する。

鴻嘉四年(前前17年)

  • 春正月、寛大を命じても改まらず、拘繫される農民が多く怨恨が和気を損なっていることを憂う詔。関東の流民、特に青幽冀部が甚だしいとし、循行の使者を遣わす。被災什四以上・貲三万に満たない者は租賦を免除、逋貸も免除。流民は籍を移して安住させる。秋、勃海・清河・河が溢れ被災者を振貸。冬、広漢の鄭躬らの党与が拡大、河東都尉趙護を広漢太守として郡兵・蜀郡合わせて三万人で撃たせ、平定後、趙護は執金吾に遷り黄金百斤を賜う。

永始元年(前前16年)

  • 春正月癸丑、太官凌室が火災。戊午、戾后園の関門が火災。夏四月、婕妤趙氏の父趙臨を成陽侯に封ずる。五月、舅の王曼の子侍中騎都尉光禄大夫王莽を新都侯に封ずる。六月丙寅、皇后趙氏(趙飛燕)を立て大赦。秋七月、将作大匠陳万年の言を誤り聴いて昌陵の造営を進めたが完成の見込みがなく、天下を疲弊させたことを悔いる詔、昌陵及び旧陵の徙民を罷める。城陽孝王の子劉俚を王に立てる。八月丁丑、太皇太后王氏(宣帝の王皇后)崩。

永始二年(前前15年)

  • 春正月己丑、大司馬車騎将軍王音薨。二月癸未夜、星が雨のように隕ち、乙酉晦、日食。龍が東莱に現れ日食もあったことを己の過ちとする詔、貧民への振貸を免除。関東の不作、義倉の民間振恤に爵・官職を賜う制。冬十一月、行幸雍で五畤を祠る。十二月、将作大匠陳万年が昌陵造営で妄りに巧詐を用い民を疲弊させたと責め、諫言した常侍王閎・侍中衛尉淳于長には爵関内侯・食邑を賜い、陳万年は敦煌郡に徙す。是嵗、御史大夫王駿(王吉の子)卒。

永始三年(前前14年)

  • 春正月己卯晦、日食、天災の頻発を憂う詔、太中大夫嘉らを天下に遣わし耆老を存問、部刺史に敦樸遜譲有行義の者を挙げさせる。冬十月庚辰、皇太后の詔で甘泉泰畤・汾隂后土・雍五畤・陳倉陳宝祠を復す(詳細は郊祀志)。十一月、尉氏の樊並ら十三人が謀反し陳留太守を殺害、討伐され列侯に封ぜられる。十二月、山陽鉄官の徒蘇令ら二百二十八人が長吏を殺し庫兵を盗み将軍を称し郡国十九を経て東郡太守・汝南都尉を殺害、汝南太守厳訢が討伐し蘇令を斬り、大司農に遷り黄金百斤を賜う。

永始四年(前前13年)

  • 春正月、甘泉に行幸し泰畤を郊祀、神光が紫殿に降る瑞祥により大赦、雲陽の吏民に爵牛酒を賜う。三月、河東に行幸し后土を祠る。夏四月癸未、長楽臨華殿・未央宮東司馬門が火災。六月甲午、霸陵園門闕が火災。地震・火災の頻発を憂い対応を問う詔。聖王が礼制で尊卑を分け車服で有徳を彰らかにする道を説き、世俗の奢侈僭上を戒める詔、青緑の常服は禁じず漸次是正するよう命じる。秋七月辛未晦、日食。

元延元年(前前12年)

  • 春正月己亥朔、日食。三月、雍に行幸し五畤を祠る。夏四月丁酉、無雲にして雷鳴・光耀の異変、大赦。秋七月、星孛が東井に現れる、日食星隕の重なる異変を憂い公卿大夫博士議郎に対策を問う詔、内郡国に方正直言極諫の士、北辺二十二郡に勇猛知兵法の士を挙げさせる。蕭相国の後の蕭喜を鄼侯に封ずる。冬十二月辛亥、大司馬大将軍王商薨。是嵗、昭儀趙氏が後宮の皇子を害する。

元延二年(前前11年)

  • 春正月、甘泉に行幸し泰畤を郊祀。三月、河東に行幸し后土を祠る。夏四月、広陵孝王の子劉宇を王に立てる。冬、長楊宮に行幸、胡客に従って大規模な校猟。萯陽宮に宿し従官に賜う。

元延三年(前前10年)

  • 春正月丙寅、蜀郡岷山が崩れ、雍江が三日にわたり水が竭きる。二月、侍中衛尉淳于長を定陵侯に封ずる。三月、雍に行幸し五畤を祠る。

元延四年(前前9年)

  • 春正月、甘泉に行幸し泰畤を郊祀。二月、司隷校尉官を廃す。三月、河東に行幸し后土を祠る。甘露降臨、長安の民に牛酒を賜う。

綏和元年(前前8年)

  • 春正月、大赦。二月癸丑、二十五年に及ぶ在位で嗣子なく、往古の禍乱を見るにこれによると述べ、定陶王欣(孝順の子)を皇太子に立てる詔。中山王の舅諫大夫馮参を宜郷侯に封じ中山国に食邑三万戸を加える。諸侯王・列侯・天下の父後たる者・三老・孝弟力田に金銭帛を賜う。王者は二王の後を存し三統を通ずるべしとして、殷の後裔として孔吉を殷紹嘉侯に封ずる詔。三月、殷紹嘉侯・周承休侯を公に進爵、各封地百里。雍に行幸し五畤を祠る。夏四月、大司馬票騎大将軍を大司馬とし将軍官を廃す。御史大夫を大司空とし列侯に封じ、大司馬・大司空の俸を丞相に準ずる。秋八月庚戌、中山王興薨。冬十一月、楚孝王の孫劉景を定陶王に立てる。定陵侯淳于長、大逆不道により下獄死。廷尉孔光、持節して廃后許氏に毒薬を賜い死なせる。十二月、部刺史を州牧に改め秩二千石とする。

綏和二年(前前7年)

  • 春正月、甘泉に行幸し泰畤を郊祀。二月壬子、丞相翟方進薨。三月、河東に行幸し后土を祠る。丙戌、帝は未央宮に崩ず(二十歳で即位、在位二十六年、享年四十五、あるいは即位翌年より改元とすれば四十六とも)。皇太后の詔で長安南北郊を復す。四月己卯、延陵に葬る。

史論

  • 賛(班固)にいう。臣(班固)の姑は成帝の後宮に入り婕妤となり、父子昆弟が帷幄に侍り、しばしば臣に語るには、成帝は容儀を修め、車に登れば正立し、内顧せず疾言せず親指せず(論語に述べる孔子の様に倣った振る舞い)、臨朝しては淵黙として尊厳あり神のごとく、まさに穆穆たる天子の容であったという。古今を博覧し直言を受け入れ、公卿は職に称い奏議は文采に富んでいた。太平の世を受け上下和睦したが、酒色に耽り趙氏が内を乱し、外戚が朝政を専らにするに至り、これを言えば嘆息するほかない。建始年間以来、王氏が国命を執り始め、哀帝・平帝の短い治世を経て王莽が簒位するに至った――その威福の由来は、この頃から徐々に積み重なったものであった。