漢書卷七 昭帝紀第七

孝昭皇帝、諱は弗(字は不)。武帝の末子で母は趙倢伃(前94–前74年)。八歳で即位し、大司馬大将軍霍光の輔政のもと在位十三年。上官桀・燕王旦らの謀反を退けて政権を安定させ、匈奴と和親し賦役を軽くして民を休息させた。

年表(8件)

出自と生い立ち

  • 孝昭皇帝は諱を弗、字を不という。武帝の末子で、母は趙倢伃。もとより奇異のしるしがあって寵愛を得、生まれたのも尋常でなかったという。事跡は「外戚伝」に見える。
  • 武帝晩年、戻太子(衛太子)が敗れ、燕王旦・広陵王胥は驕慢な振る舞いが目立った。

後元二年(前87年)

  • 二月、武帝が重病となり、昭帝を皇太子に立てた。時に8歳。侍中・奉車都尉の霍光を大司馬大将軍とし、遺詔を受けて幼主を輔けさせた。
  • 翌日武帝が崩じ、戊辰の日に太子が皇帝に即位し、高廟に謁した。帝の姉・鄂邑公主は湯沐邑を加増され長公主となり、宮中で養育にあたった。
  • 大将軍霍光が政をとり尚書の事を領し、車騎将軍金日磾、左将軍上官桀がこれを補佐した。
  • 夏六月、天下に大赦した。秋七月、星孛が東方に現れた。済北王寛が罪を得て自殺し、長公主および宗室の兄弟にそれぞれ差をつけて賜与した。
  • 趙倢伃を追尊して皇太后とし、雲陵を築いた。冬、匈奴が朔方に入り吏民を殺掠したので、軍を発して西河に屯させ、左将軍上官桀が北辺を巡行した。

始元元年(前86年)

  • 春二月、黄鵠が建章宮の太液池に下り立った。公卿が寿を上奏し、諸侯王・列侯・宗室に金銭を差等をつけて賜った。己亥、帝は鉤盾の弄田で耕作のまねごとをした。燕王・広陵王および鄂邑長公主にそれぞれ一万三千戸を加増した。
  • 夏、皇太后のために雲陵に園廟を建てた。益州の廉頭・姑繒・牂柯・談指・同並の二十四邑がことごとく反した。水衡都尉呂破胡を遣わし、吏民および犍為・蜀郡の犇命(奔命の兵)を発して撃たせ、大破した。
  • 有司が河内郡を冀州に、河東郡を并州に属させるよう請うた。秋七月、天下に大赦し、民に百戸ごとに牛・酒を賜った。大雨で渭橋が絶えた。八月、斉孝王の孫劉沢が謀反して青州刺史雋不疑を殺そうとしたが発覚し、皆誅に伏した。不疑は京兆尹に遷り銭百万を賜った。
  • 九月丙子、車騎将軍金日磾が薨じた。閏月、故廷尉王平ら五人を遣わして持節で郡国を巡行させ、賢良を挙げ民の疾苦・冤罪・失職の者を問わせた。冬、氷が張らなかった。

始元二年(前85年)

  • 春正月、大将軍霍光・左将軍上官桀は、先に反虜重合侯馬通を捕斬した功により、光は博陸侯、桀は安陽侯に封じられた。位にない宗室の中から茂材を挙げ、劉辟彊・劉長楽をいずれも光禄大夫とし、辟彊は守長楽衛尉となった。
  • 三月、使者を遣わして種食のない貧民に貸与した。秋八月、詔して「昨年は災害が多く、今年は麦が虫害に遭った。振貸した種食は取り立てず、今年の田租も出させるな」とし、冬には戦射を習わせるため士を朔方に集め、故吏を調えて張掖郡で屯田させた。

始元三年(前84年)

  • 春二月、星孛が西北に現れた。秋、民を募って雲陵に徙し銭・田宅を賜った。冬十月、鳳皇が東海に集まり、使者を遣わしてその地を祠らせた。十一月壬辰朔、日食があった。

始元四年(前83年)

  • 春三月甲寅、皇后上官氏を立てた(上官桀の孫、安の娘)。天下に大赦し、後二年より前の訴訟は取り上げないこととした。夏六月、皇后が高廟に謁し、長公主・丞相・将軍・列侯・中二千石以下の郎吏・宗室に銭帛を差等をつけて賜った。三輔の富人を雲陵に徙し、戸ごとに銭十万を賜った。
  • 秋七月、詔して「近年は不作で民は食に窮している。流庸(本籍を離れ雇われ働く者)がなお還っていない。従来民に馬の供出を命じていたが、それをやめよ。諸々の中都官(京師の諸官府)への供給も減らせ」とした。冬、大鴻臚田広明を遣わして益州を撃たせた。廷尉李种が罪人を故意に見逃した罪に坐して棄市された。

始元五年(前82年)

  • 春正月、皇太后の父を追尊して順成侯とした。夏陽の男子張延年が北闕に至り、自ら衛太子と称して誣罔の罪により腰斬された。夏、天下の亭で母馬を飼うことと馬弩関の禁をやめた。
  • 六月、皇后の父・驃騎将軍上官安を桑楽侯に封じた。詔して「自分は幼くして宗廟を受け継ぎ、戦戦兢兢として朝夕勤め、『保傅伝』『孝経』『論語』『尚書』を学んだがまだ明らかにできていない」とし、三輔・太常に賢良各二人、郡国に文学高第各一人を挙げさせ、中二千石以下吏民に爵を差等をつけて賜った。儋耳・眞番の二郡を廃止した。
  • 秋、大鴻臚田広明・軍正王平が益州を撃ち、首を斬り虜を捕らえること三万余人、家畜五万余頭を獲た。

始元六年(前81年)

  • 春正月、帝は上林で耕作した。二月、詔して有司に郡国が挙げた賢良文学に民の疾苦を問わせ、塩鉄・榷酤(専売)の廃止を議させた。栘中監蘇武が先に匈奴に使いして単于の庭に十九年留められていたが、ようやく還った。使命を全うしたとして蘇武を典属国に任じ、銭百万を賜った。
  • 夏、旱魃で雩祭を行い、火を挙げることを禁じた。秋七月、榷酤の官を廃止し、民が法に基づき自ら租を占告することを許した(酒は一升四銭とした)。辺塞が遠く隔たっているため、天水・隴西・張掖の各郡から二県ずつを取って金城郡を置いた。詔して、鉤町侯母波がその君長・人民を率いて反者を撃ち首を斬り虜を捕らえた功により、母波を鉤町王に立てた。大鴻臚田広明の部下で功のあった者に関内侯の爵位と食邑を賜った。

元鳳元年(前80年)

  • 春、(三年来鳳皇がしばしば東海・海西の楽郷に舞い降りたため、これを冠して元鳳と改元した)、長公主の養育の労を賞し、藍田の地を加えて長公主の湯沐邑とした。泗水の戴王が先に薨じ嗣子がなく国を除かれていたが、後宮に遺腹の子煖がいた。相・内史が上奏しなかったため、帝がこれを聞いて憐れみ、煖を泗水王に立て、相・内史は下獄させた。
  • 三月、郡国が選んだ有徳の者、涿郡の韓福ら五人に帛五十匹を賜って帰らせ、詔して「その労役を哀れむ。孝弟を修めて郷里を教化せよ」とし、郡県は正月ごとに羊・酒を賜い、不幸のあった家には衣被一襲と中牢(少牢)の祭祀を賜うことを常例とした。武都の氐人が反したので、執金吾馬適建・龍頟侯韓増・大鴻臚田広明が三輔・太常の徒(刑徒)を免刑として率い撃たせた。
  • 夏六月、天下に大赦した。秋七月乙亥の晦、日食が皆既となった。八月、始元から元鳳に改元した。
  • 九月、鄂邑長公主・燕王旦は、左将軍上官桀・その子で票騎将軍の上官安・御史大夫桑弘羊とともに謀反し、皆誅に伏した。もとより桀・安父子は大将軍霍光と権を争いこれを害しようとし、人を偽って燕王旦の上書を作らせ光の罪を訴えさせたが、詐りが露見した。以後、光を讒言する者があると、帝は「大将軍は国家の忠臣、先帝の遺命による者だ。讒毀する者は罪に坐す」と怒ったため、光はますます忠を尽くすことができた。詳細は「燕王伝」「霍光伝」に見える。
  • 冬十月、詔して、左将軍安陽侯桀・票騎将軍桑楽侯安・御史大夫桑弘羊がしばしば邪枉をもって輔政に干渉し、大将軍が聞き入れないのを怨んで燕王と通謀し、駅を置いて往来し、燕王の遣わした孫縦之らが長公主・丁外人・謁者杜延年・大将軍長史公孫遺らと私書を交わして結び、長公主に酒宴で伏兵を用意させ大将軍光を殺して燕王を天子に立てようと謀ったこと(大逆無道)を明らかにした。故稲田使者燕倉がまず発覚させ、大司農楊敞に告げ、楊敞は諫大夫杜延年に告げてこれが帝に達した。丞相徴事任宮が自ら上官桀を捕らえて斬り、丞相少史王寿が上官安を誘って府門に入れ、皆誅に伏した。上官安を捕らえた吏民、および杜延年・燕倉・任宮・王寿は皆列侯に封じられた。
  • また詔して、燕王旦は先に斉王の子劉沢らの逆謀を知りながら抑えて発覚させなかったが、その罪を赦し、王太子の建・長公主の子文信・宗室の子で燕王・上官桀らの謀反に連座すべき父母兄弟は皆免じて庶人とし、桀らに欺かれて連座した未発覚の吏はその罪を除くとした。

元鳳二年(前79年)

  • 夏四月、帝は建章宮から未央宮に移った。大いに酒宴を設け、郎従官・宗室の子に銭を人ごとに二十万賜り、牛・酒を献じた吏民には帛一匹を賜った。
  • 六月、天下に大赦した。詔して「百姓がなお十分でないことを憐れむ。前年、漕運を三百万石減らし、乗輿馬・苑馬を大幅に減らして辺郡・三輔の伝馬に充てた。郡国は今年の馬口銭を徴収するな」とし、三輔・太常郡には叔粟(豆と穀)で賦税に充てることを許した。

元鳳三年(前78年)

  • 春正月、泰山で大石が自ら起き上がり立ち、上林の枯れた柳の木が自ら起き上がって芽吹いた。中牟苑を廃止して貧民に賦した。詔して「先に民が水害に遭い食に窮したので、倉廩を開き使者を遣わして困窮者を救った。今年の漕運を四年間停止し、三年以前に振貸した分のうち丞相・御史の請によらぬ辺郡の受牛者には取り立てをやめよ」とした。
  • 夏四月、少府徐仁・廷尉王平・左馮翊賈勝胡が皆反者を見逃した罪に坐し、仁は自殺、平・勝胡は腰斬された。冬、遼東の烏桓が反したので、中郎将范明友を度遼将軍とし、北辺七郡・郡ごとに二千騎を率いて撃たせた。

元鳳四年(前77年)

  • 春正月丁亥、帝が元服を加え、高廟に見えた。諸侯王・丞相・大将軍・列侯・宗室以下吏民に金帛・牛酒を差等をつけて賜り、中二千石以下および天下の民に爵を賜って、四・五年の口賦の徴収を免じた。三年以前の逋更賦(未納の徭役代納銭)で未納の分も取り立てをやめた。天下に五日間の酺(会飲)を許した。甲戌、丞相田千秋が薨じた。
  • 夏四月、詔して「度遼将軍范明友は先に羌騎校尉として益州の反虜を撃ち、また武都の反氐を撃ち、今は烏桓を破って虜を斬獲する功があった」とし、明友を平陵侯に封じた。平楽監傅介子が持節の使者として楼蘭王安帰を誅斬し、その首を北闕に懸けて義陽侯に封じられた。
  • 五月丁丑、孝文廟の正殿が火災に遭った。帝と群臣は素服し、中二千石を発して五校の兵に六日で修復させた。太常および廟令・丞・郎吏は皆大不敬の罪に問われたが、恩赦に遭い、太常轑陽侯江徳は免ぜられて庶人となった。六月、天下に大赦した。

元鳳五年(前76年)

  • 春正月、広陵王が来朝し、国を一万一千戸加増し、銭二千万・黄金二百斤・剣二口・安車一乗・馬二駟(八匹)を賜った。夏、大旱。六月、三輔および郡国の悪少年で告発・弾劾を受けて逃亡した吏を発して遼東に屯させた。秋、象郡を廃止し鬱林・牂牁に分属させた。冬十一月、大雷。十二月庚戌、丞相王訢が薨じた。

元鳳六年(前75年)

  • 春正月、郡国の徒を募って遼東の玄菟城を築かせた。夏、天下に大赦し、詔して「穀物が安すぎると農を傷つける。三輔・太常の穀物は値下がりしているので、叔粟で今年の賦に充てさせよ」とした。右将軍張安世は宿衛に忠謹であったので富平侯に封じた。烏桓がまた塞を犯したので、度遼将軍范明友を遣わして撃たせた。

元平元年(前74年)

  • 春二月、詔して「天下は農桑を本とする。近ごろ不要な官を省き外繇(労役)を減らし、耕桑に従う者は増えたが、なお百姓は家ごとに十分な生活ができていない。口賦銭を減らしたい」とした。有司が十分の三の減額を奏請し、許した。
  • 甲申の未明、月ほどの大きさの流星が現れ、多くの星がこれに随って西行した。夏四月癸未、帝は未央宮で崩じた。六月壬申、平陵に葬られた。

史論

  • 賛にいう。かつて周の成王は幼くして位を継ぎ、管・蔡ら四国が流言を為す変事があった。孝昭帝も幼くして即位し、燕王旦・鄂邑長公主・上官氏らの逆乱の謀があったが、成王が周公を疑わず、孝昭帝が霍光に委任したことで、それぞれの時勢に応じて名を成した点は偉大というべきである。
  • 武帝の奢侈と師旅の弊を承け、天下は疲弊して戸口は半減していたが、霍光は時務の要を知り、繇役を軽くし賦を薄くして民を休息させた。始元・元鳳の間、匈奴と和親し百姓は充実し、賢良文学を挙げて民の疾苦を問い、塩鉄を議して榷酤を廃した。「昭」の尊号は宜なるかな。