漢書卷六 武帝紀第六
孝武皇帝、諱は徹(字は通)。景帝の中子で母は王美人(前156–前87年)。十六歳で即位し在位五十四年。匈奴への攻勢に転じて衛青・霍去病らを用い河西・漠北を制圧、南越・朝鮮・西南夷を郡県化し、太初改暦・儒教の表彰など制度面でも漢の隆盛を築いた一方、晩年は巫蠱の乱で戻太子を失った。
年表(22件)
- 出自と即位景帝崩後、十六歳で皇帝に即位する
- 建元二年(BCE139年)御史大夫趙綰・郎中令王臧が竇太后との対立で獄に下され自殺する
- 建元六年(BCE135年)太皇太后(竇太后)が崩じ、親政の実が固まる
- 元光二年(BCE133年)馬邑の計が失敗し、対匈奴強硬路線に転じる
- 元光六年(BCE129年)衛青が龍城で匈奴を破り、対匈奴反撃が始まる
- 元朔二年(BCE127年)推恩の令により諸侯国を分割する
- 元朔二年(BCE127年)衛青が河南の地を収め朔方・五原郡を置く
- 元狩元年(BCE122年)淮南王安・衡山王賜が謀反の罪で誅される
- 元狩元年(BCE122年)皇太子(のちの戻太子劉拠)を立てる
- 元狩二年(BCE121年)霍去病が河西を平定し、匈奴昆邪王が降る
- 元狩四年(BCE119年)衛青・霍去病が漠北で単于・左賢王を大破する
- 元狩六年(BCE117年)大司馬驃騎将軍霍去病が薨じる
- 元鼎六年(BCE111年)南越を平定し九郡を置く
- 元封元年(BCE110年)泰山に登って封禅を行う
- 元封五年(BCE106年)大司馬大将軍衛青が薨じ、初めて十三州に刺史部を置く
- 太初元年(BCE104年)暦を改めて正月を歳首とする太初改暦を行う
- 太初四年(BCE101年)李広利が大宛王を斬り汗血馬を得て凱旋する
- 天漢二年(BCE99年)騎都尉李陵の軍が敗れ匈奴に降る
- 征和二年(BCE91年)巫蠱の乱が起こり、皇后・太子が死ぬ(戻太子の変)
- 征和三年(BCE90年)貳師将軍李広利が戦いに敗れ匈奴に降る
- 後元二年(BCE87年)皇子弗陵(のちの昭帝)を皇太子に立てる
- 後元二年(BCE87年)五柞宮で崩じ、茂陵に葬られる(在位五十四年、享年七十一)
出自と即位
- 孝武皇帝は諱を徹、字を通という。景帝の中子で、母は王美人。四歳で膠東王に立てられ、七歳で皇太子となり、母は皇后となった。十六歳、後元三年正月に景帝が崩じ、甲子の日に太子が皇帝に即位し、皇太后 竇氏を太皇太后と尊び、皇后を皇太后とした。三月、皇太后の同母弟 田蚡・田勝をともに列侯に封じた。
建元元年(BCE140年)
- 冬十月、詔して丞相・御史・列侯・中二千石・二千石・諸侯相に賢良方正で直言極諫できる士を挙げさせた。丞相 衛綰は、挙げられた者の中に申不害・商鞅・韓非・蘇秦・張儀の説を治め国政を乱す恐れのある者がいるとして、その罷免を奏請し許された。
- 春二月、天下に大赦し民に爵一級を賜い、八十歳以上には人頭税二算を、九十歳以上にはその家の甲卒の兵役を免除した。三銖銭を発行した。
- 夏四月己巳、詔して孝行の道を重んじ、九十歳以上の老親を持つ者には子や孫が自ら扶養に専念できるよう課役を免除した。五月、詔して山川の祭祀を恒例の年中行事として礼を厚くすることとし、呉楚七国の乱の際に官奴婢とされた者の妻子を赦した。
- 秋七月、詔して衛士の往来による人員(二万人)を一万人に減らし、苑馬の禁を解いて貧民に賜い、明堂の造営を議し、安車蒲輪をもって魯の申公を招聘した。
建元二年(BCE139年)
- 冬十月、御史大夫 趙綰が太皇太后への奏事を止めるよう請うたことに座し、郎中令 王臧とともに獄に下されて自殺した(明堂・辟雍の設立を推す儒者と、黄老の術を尊ぶ竇太后との対立が背景にある)。丞相 竇嬰・太尉 田蚡は免職となった。
- 春二月丙戌朔、日食があった。夏四月戊申、昼に太陽のような光が夜に出る異象があった。初めて茂陵邑を置いた。
建元三年(BCE138年)
- 春、黄河が平原で氾濫し、大飢饉となり人が人を食うほどであった。茂陵に移住した者に戸ごとに銭二十万・田二頃を賜った。初めて便門橋を造った。
- 秋七月、西北に彗星が現れた。済川王 明が太傅・中傅を殺した罪により廃されて防陵に遷された。閩越が東甌を包囲し、東甌が急を告げると中大夫 厳助に節を持たせ会稽の兵を発して海路救援に向かわせたが、至る前に閩越は撤退した。九月丙子の晦、日食があった。
建元四年(BCE137年)
- 夏、血のように赤い風が吹いた。六月、旱魃となった。秋九月、東北に彗星が現れた。
建元五年(BCE136年)
- 春、三銖銭を廃して半両銭を発行し、五経博士を置いた。夏四月、平原君(王皇后の母で武帝の外祖母)が薨じた。五月、大蝗害があった。秋八月、広川王 越・清河王 乗がともに薨じた。
建元六年(BCE135年)
- 春二月乙未、遼東の高廟が火災に遭った。夏四月壬子、高園の便殿が火災に遭い、上は五日間喪服を着た。五月丁亥、太皇太后(竇太后)が崩じた。
- 秋八月、東方に天を横切るほどの彗星が現れた。閩越王 郢が南越を攻めたため、大行 王恢を豫章から、大司農 韓安国を会稽から進発させて撃たせたが、至る前に閩越人が郢を殺して降ったため兵を還した。
元光元年(BCE134年)
- 冬十一月、初めて郡国に孝廉各一人の推挙を命じた。衛尉 李広を驍騎将軍として雲中に、中尉 程不識を車騎将軍として雁門に屯させ、六月に罷めた。
- 夏四月、天下に大赦し民の嫡長子に爵一級を賜い、七国の乱で連座して属籍を絶たれていた宗室を復籍させた。
- 五月、詔して賢良に問い、唐虞の世の徳治や周の成王・康王の刑罰不要の治を理想として挙げ、自らの不徳を省みつつ古今の治道を問うた。ここに董仲舒・公孫弘らが対策により登用された。秋七月癸未、日食があった。
元光二年(BCE133年)
- 冬十月、雍に行幸して五畤を祀った。春、詔して公卿に、単于に厚く贈り物をしても侵掠がやまぬことを憂い、匈奴征討の可否を問うた。大行 王恢は撃つべきと建言した。
- 夏六月、御史大夫 韓安国を護軍将軍、衛尉 李広を驍騎将軍、太僕 公孫賀を軽車将軍、大行 王恢を将屯将軍、太中大夫 李息を材官将軍とし、三十万の衆を馬邑の谷に伏せて単于を誘い撃とうとしたが(馬邑の計)、単于は塞に入って計略を察知し引き返した。六月、軍を罷め、首謀者でありながら進撃しなかった将軍 王恢は獄に下されて死んだ。秋九月、民に五日間の大酺を許した。
元光三年(BCE132年)
- 春、黄河が頓丘から東南に流れを変え渤海に注いだ。夏五月、高祖の功臣五人の子孫を列侯に封じた。黄河が濮陽で決壊し十六郡に氾濫が及んだため、卒十万を発して救い、龍淵宮を起こした。
元光四年(BCE131年)
- 冬、魏其侯 竇嬰が灌夫の党を庇った罪により棄市となった。春三月乙卯、丞相 田蚡が薨じた。夏四月、霜が降りて草を枯らした。五月、地震があり、天下に大赦した。
元光五年(BCE130年)
- 春正月、河間王 徳が薨じた。夏、巴蜀の民を発して南夷への道を開かせ、また卒一万人を発して雁門の険阻な地の防備を固めさせた。
- 秋七月、大風が木を抜いた。乙巳、皇后 陳氏が廃された(巫蠱の罪により、関係者はみな梟首された)。八月、螟の害があった。時務に明るく先聖の術に習熟した吏民を徴召した。
元光六年(BCE129年)
- 冬、初めて商人の車船に課税した。春、漕渠を穿って渭水に通じさせた。匈奴が上谷に侵入して吏民を殺掠したため、車騎将軍 衛青を上谷から、騎将軍 公孫敖を代から、軽車将軍 公孫賀を雲中から、驍騎将軍 李広を雁門から出撃させた。衛青は龍城に至って首虜七百級を得たが、李広・公孫敖は軍を失って還った。
- 詔して、将吏が新たに合流して上下の意思疎通を欠いたための敗北であるとして、雁門・代郡の規律違反の軍士を赦した。夏、大旱・蝗害があった。六月、雍に行幸した。秋、匈奴がふたたび辺境を侵したため、将軍 韓安国を漁陽に屯させた。
元朔元年(BCE128年)
- 冬十一月、詔して公卿大夫が方略を統べ教化と風俗を美しくすべきことを説き、賢良の推挙とその賞罰の制を厳しく定めさせた(郡の孝廉を挙げぬ長官は不敬・不勝任として罪に問う定め)。十二月、江都王 非が薨じた。
- 春三月甲子、衛氏を皇后に立てた。詔して、天地・陰陽が変じてこそ万物が暢達するとし、天下に大赦して民と共に更始し、景帝後元三年以前の未返済の負債や訴訟を一切問わぬこととした。
- 秋、匈奴が遼西に侵入して太守を殺し、漁陽・雁門でも都尉を破り三千余人を殺掠した。将軍 衛青を雁門から、李息を代から出撃させ首虜数千級を得た。東夷の薉君 南閭ら口二十八万人が降り、蒼海郡を置いた。魯王 余・長沙王 発がともに薨じた。
元朔二年(BCE127年)
- 冬、淮南王・菑川王(武帝の伯叔にあたるため)に几杖を賜い朝見を免じた。
- 春正月、詔して諸侯王が子弟に邑を分けることを許すよう請う議を認め、これより諸侯国は分裂して子弟がみな侯となった(推恩の令)。
- 匈奴が上谷・漁陽に侵入し吏民千余人を殺掠したため、衛青・李息を雲中から高闕、さらに西の符離まで出撃させ首虜数千級を得て、河南の地を収め朔方・五原郡を置いた。三月己亥の晦、日食があった。
- 夏、民十万口を募って朔方に移住させ、また郡国の豪傑や資産三百万銭以上の者を茂陵に移した。秋、燕王 定国が罪により自殺した。
元朔三年(BCE126年)
- 春、蒼海郡を廃した。三月、詔して刑罰は姦を防ぐため、仁愛は民を慈しむためとし、百姓がなお教化に浴していないとして天下に大赦した。夏、匈奴が代に侵入し太守を殺し、雁門で千余人を殺掠した。六月庚午、皇太后(王太后)が崩じた。秋、西南夷や朔方に築いた城を廃し、民に五日間の大酺を許した。
元朔四年(BCE125年)
- 冬、甘泉に行幸した。夏、匈奴が代・定襄・上郡に侵入し数千人を殺掠した。
元朔五年(BCE124年)
- 春、大旱となった。大将軍 衛青が六将軍・十余万の兵を率いて朔方の高闕から出撃し、首虜一万五千級を得た。
- 夏六月、詔して礼楽教化の衰えを憂い、広く学識ある士を招いて朝廷に薦めさせ、太常には博士の弟子の学業と郷党の教化について議させた。丞相 公孫弘の請いにより博士に弟子員を置き、学問は以後さらに広まった。秋、匈奴が代に侵入し都尉を殺した。
元朔六年(BCE123年)
- 春二月、大将軍 衛青が六将軍・十余万騎を率いて定襄から出撃し、斬首三千余級を得て定襄・雲中・雁門で兵馬を休ませた。天下に大赦した。
- 夏四月、衛青がふたたび六将軍を率いて砂漠を越え大いに戦果を挙げたが、前将軍 趙信の軍は敗れて匈奴に降り、右将軍 蘇建は軍を失い単身で脱出し贖罪して庶人となった。
- 六月、詔して、古の帝王の治法は互いに異なるが立徳の志は一つであるとし、中国は統一されたが北辺がなお不安であることを憂い、大将軍のたび重なる匈奴征討の功(先の遠征と合わせ斬首虜約三万余級)を嘉して、武功に応じた爵賞の官を新設する議を命じた。
元狩元年(BCE122年)
- 冬十月、雍に行幸して五畤を祀り、白麟を得て「白麟の歌」を作った。十一月、淮南王 安・衡山王 賜が謀反の罪で誅され、連座して死んだ者は数万人に及んだ。十二月、大雪が降り凍死する民が出た。
- 夏四月、天下に大赦し、丁卯に皇太子(のちの戻太子 劉拠)を立て、中二千石に右庶長の爵を、父の後継ぎとなる民に爵一級を賜った。詔して、人を知ることの難しさを説き、淮南・衡山の謀反事件を自らの不徳に帰して天下に大赦し民と更始し、孝弟力田・老いた孤寡鰥独の者を憐れんで賑済した。
- 五月乙巳の晦、日食があった。匈奴が上谷に侵入し数百人を殺した。
元狩二年(BCE121年)
- 冬十月、雍に行幸して五畤を祀った。春三月戊寅、丞相 公孫弘が薨じた。驃騎将軍 霍去病を隴西から皋蘭まで出撃させ、斬首八千余級を得た。
- 夏、南越が馴らした象と人語を話す鳥(鸚鵡)を献じた。霍去病・公孫敖が北地から二千余里の居延を経て斬首虜三万余級を得た。匈奴が雁門に侵入し数百人を殺掠したため、衛尉 張騫・郎中令 李広を右北平から出撃させたが、李広は匈奴三千余人を殺したものの全軍をほぼ失い単身で脱出し、公孫敖・張騫は共に期日に後れて斬に当たるところを贖罪して庶人となった。江都王 建が罪により自殺し、膠東王 寄が薨じた。
- 秋、匈奴の昆邪王が休屠王を殺してその衆を併せ四万余人を率いて降ったため、五属国を置いてこれを処し、その地を武威・酒泉郡とした。
元狩三年(BCE120年)
- 春、東方に彗星が現れた。夏五月、天下に大赦し、膠東康王の末子 慶を六安王に、旧相国 蕭何の曾孫 慶を列侯に封じた。
- 秋、匈奴が右北平・定襄に侵入し千余人を殺掠した。水害のあった郡には麦を作らせ、貧民に貸与できる吏民をその名とともに挙げさせた。隴西・北地・上郡の戍卒を半減し、罰として罪吏を発して昆明池を穿らせた(水軍の訓練のため)。
元狩四年(BCE119年)
- 冬、有司が関東の貧民七十二万五千口を隴西などへ移住させたが官の費用が不足すると言上したため、銀錫で白金を、鹿皮で皮幣を作り財源とし、初めて商人の資産(緡銭)に課税した。
- 春、東北に彗星が現れ、夏には西北に長星が現れた。大将軍 衛青が四将軍を率いて定襄から、驃騎将軍 霍去病が代から、それぞれ五万騎を率い、歩兵数十万がこれに続いた。衛青は砂漠の北で単于を包囲し斬首一万九千級を得て闐顔山まで至って還った。霍去病は左賢王と戦い斬獲首虜七万余級を得、狼居胥山に封じて還った。両軍の戦死者は数万に及び、前将軍 李広・後将軍 趙食其はともに期日に後れ、広は自殺し、食其は贖罪して死を免れた。
元狩五年(BCE118年)
- 春三月、丞相 李蔡が罪により自殺した。天下の馬が不足し、牡馬一匹の価格を銭二十万に定めて飼育を奨励した。半両銭を廃して五銖銭を発行し、天下の姦猾な吏民を辺境に移した。
元狩六年(BCE117年)
- 冬十月、丞相以下二千石の吏に金百斤を、千石以下扈従の者に帛を、蛮夷には錦をそれぞれ差等をつけて賜った。冬でも氷が張らなかった。
- 夏四月乙巳、廟中で皇子 閎を斉王、旦を燕王、胥を広陵王に立て、初めて「誥」の文体を用いた。
- 六月、詔して貨幣の混乱と兼并の弊を正すため幣制を改め(五銖銭・皮幣)、博士 褚大ら六人を天下に分遣して民情を調べさせ隠逸の賢者を挙げさせた。秋九月、大司馬驃騎将軍 霍去病が薨じた。
元鼎元年(BCE116年)
- 夏五月、天下に大赦し五日間の大酺を許した。汾水のほとりで鼎を得た。済東王 彭離が罪により廃されて上庸に遷された。
元鼎二年(BCE115年)
- 冬十一月、御史大夫 張湯が罪により自殺した。十二月、丞相 青翟(荘青翟)が獄に下されて死んだ。
- 春、柏梁台を起こした。三月、大雪が降った。夏、大水があり関東で餓死する者が千を数えた。秋九月、詔して遠近を分けぬ仁義を説き、巴蜀の粟を江陵に運んで賑済し、博士 中らを分遣して告諭させ、窮民を救った吏を挙げさせた。
元鼎三年(BCE114年)
- 冬、函谷関を新安に移し、旧関の地を弘農県とした。十一月、脱税者を告発した者にその半分を与える令(告緡令)を出した。
- 正月戊子、陽陵の園が火災に遭った。夏四月、雹が降った。関東の十余郡国で大飢饉となり人が人を食った。常山王 舜が薨じ、子の勃が嗣いだが罪により廃されて房陵に遷された。
元鼎四年(BCE113年)
- 冬十月、雍に行幸して五畤を祀り、民に爵一級・女子に牛酒を賜い、夏陽から東の汾陰に行幸した。十一月甲子、后土の祠を汾陰の脽の上に立てた。
- 礼を終えて滎陽に行幸し、洛陽に還って、周の後裔を捜し出して周子南君に封じ周の祭祀を継がせた。
- 春二月、中山王 勝が薨じた。夏、方士 欒大を楽通侯・上将軍に封じた。六月、后土祠のそばで宝鼎を得た。秋、渥洼水の中に神馬が現れ、「宝鼎天馬の歌」を作った。常山憲王の子 商を泗水王に立てた。
元鼎五年(BCE112年)
- 冬十月、雍に行幸して五畤を祀り、隴を越えて崆峒に登り、西の祖厲河に臨んで還った。十一月辛巳朔旦冬至、甘泉に泰畤を立てて天子自ら郊祭し、朝日夕月の礼を行った。詔して、微身をもって王侯の上に託されたことを省み、豊年を祈って后土を巡祭したことを述べた。
- 夏四月、南越の相 呂嘉が反して漢の使者と南越王・王太后を殺したため、天下に大赦した。丁丑の晦、日食があった。秋、蛙の類が群れ闘う異象があった。伏波将軍 路博徳・楼船将軍 楊僕・戈船将軍 厳・下瀬将軍 甲らを五路に分けて南越討伐に向かわせ、番禺に会師させた。
- 九月、列侯で酎金(宗廟祭祀に献ずる黄金)の量目や品位が法に適わなかった者百六人が爵を奪われ、丞相 趙周が獄に下されて死んだ。楽通侯 欒大は詐りの罪で腰斬に処された。西羌の衆十万が反して匈奴と通じ故安・枹罕を攻囲した。匈奴が五原に侵入し太守を殺した。
元鼎六年(BCE111年)
- 冬十月、隴西・天水・安定の騎士および中尉・河南・河内の卒十万人を発し、李息・徐自為に西羌を討たせて平定した。東に緱氏へ行幸する途上、南越平定の報を聞いて経由地の県名を改め、汲県で呂嘉の首級を得て獲嘉県とした。ついに越の地を平定し、南海・蒼梧・鬱林・合浦・交趾・九真・日南・珠崖・儋耳の九郡を置いた。西南夷を平定し、武都・牂柯・越嶲・沈黎・文山郡を置いた。
- 秋、東越王 余善が反して漢の将吏を殺したため、韓説・王温舒・楊僕らを遣わして討たせ、また公孫賀を九原から、趙破奴を令居から出撃させたがともに敵に遭わず還った。武威・酒泉の地を分けて張掖・敦煌郡を置き民を移して実地させた。
元封元年(BCE110年)
- 冬十月、詔して南越・東甌はすでに平定したが西南の蛮夷北方の匈奴はなお和せぬとし、自ら十二部将軍を率いて辺境を巡り、単于台に登り朔方の北河に臨んで十八万騎を閲兵し、匈奴に使者を遣わして戦を挑ませた。橋山に黄帝を祀って甘泉に還った。東越が王 余善を殺して降ったため、その民を江淮の間に遷しその地を空にした。
- 春正月、緱氏に行幸し、嵩山に登拝して万歳の呼び声が聞こえたという瑞祥により太室の祠を増築し崇高の邑を奉邑とした。東に海上を巡り、夏四月、泰山に登って封じ、明堂に降り立った。
- 詔して、微身をもって至尊を承け八神を祀り天地の恩寵を受けたとし、泰山に登って封じ梁父において禅(地を祭る儀)を行い、粛然山でも禅を行い、この年十月を元封元年と改めることとした。博・奉高・蛇丘・歴城・梁父を巡り、未納の租税や貸与米を免じ、高齢の孤寡に帛を賜い、四県の今年の人頭税を免じ、天下の民に爵一級・女子に牛酒を賜った。泰山からさらに東の海上を巡り碣石に至り、遼西・北辺の九原を経て甘泉に還った。秋、東井・三台に彗星が現れた。斉王 閎が薨じた。
元封二年(BCE109年)
- 冬十月、雍に行幸して五畤を祀った。春、緱氏に行幸してさらに東莱に至った。夏四月、還って泰山を祀り、瓠子で決壊した黄河の堤を親臨し、従臣以下に薪を負わせて塞がせ「瓠子の歌」を作った。通過した地の徒刑者を赦し、孤独な高齢者に米を賜った。還って甘泉に通天台、長安に飛廉館を作った。朝鮮王が遼東都尉を攻め殺したため、天下の死罪人を募って朝鮮を撃たせた。
- 六月、詔して甘泉宮内に霊芝が生えた瑞祥を述べ、天下に大赦し雲陽の民に牛酒を賜い「芝房の歌」を作った。
- 秋、泰山の麓に明堂を作った。楼船将軍 楊僕・左将軍 荀彘に募集の罪人を率いさせ朝鮮を撃たせ、また将軍 郭昌・中郎将 衛広に巴蜀の兵を発させ服さぬ西南夷を平らげ益州郡を置いた。
元封三年(BCE108年)
- 春、角抵の戯を興し、三百里以内の民がみな見物に集まった。夏、朝鮮がその王 右渠を斬って降ったため、その地を楽浪・臨屯・玄菟・真番郡とした。楊僕は損害が大きかった罪で庶人に落とされ、荀彘は功を争った罪で棄市となった。
- 秋七月、膠西王 端が薨じた。武都の氐人が反したため一部を酒泉郡に移した。
元封四年(BCE107年)
- 冬十月、雍に行幸して五畤を祀り、回中の道を通して北から蕭関を出、独鹿・鳴沢を経て代から還り河東に行幸した。
- 春三月、后土を祀った際に霊壇に光の瑞応があったとして汾陰・夏陽・中都の死罪以下を赦し、三県と楊氏の今年の租賦を免じた。夏、大旱で熱死する民が多かった。秋、匈奴が弱まったとみて服属を勧める使者を送ったが単于の使者は京師で死に、匈奴はなお辺境を侵したため拔胡将軍 郭昌を朔方に屯させた。
元封五年(BCE106年)
- 冬、南方を巡狩し盛唐に至り、虞舜を九嶷に望祀し、灊の天柱山に登り、尋陽から長江に浮かんで自ら蛟を射て捕らえ、船団は千里に連なり、樅陽を経て「盛唐樅陽の歌」を作り、北の琅邪まで海沿いを巡り、通過した名山大川に礼祀した。
- 春三月、泰山に還って封を増し、甲子に高祖を明堂で上帝に配祀し、諸侯王・列侯の朝見と郡国の上計を受けた。
- 夏四月、詔して荊揚を巡り江淮の神気を集め泰山に合わせて祀ったとして天下に大赦し、行幸した県の今年の租賦を免じ、鰥寡孤独に帛を、貧窮者に粟を賜った。甘泉に還り泰畤を郊祀した。大司馬大将軍 衛青が薨じた。初めて十三州に刺史部を置いた。詔して常ならぬ功には常ならぬ人材が必要であるとし、州郡に将相・使者となりうる非凡の人材を推挙させた。
元封六年(BCE105年)
- 冬、回中に行幸した。春、首山宮を作った。三月、河東に行幸して后土を祀り、詔して首山の田から珍宝が出て黄金に化した瑞祥や后土祭祀の神光を述べ、汾陰の死罪以下を赦し、天下の貧民に布帛人ごとに一匹を賜った。
- 益州の昆明が反したため、京師の亡命者を赦して従軍させ、拔胡将軍 郭昌に討たせた。夏、京師の民が上林の平楽館で角抵を見物した。秋、大旱・蝗害があった。
太初元年(BCE104年)
- 冬十月、泰山に行幸した。十一月甲子朔旦冬至、明堂で上帝を祀った。乙酉、柏梁台が火災に遭った。十二月、高里で禅を行い后土を祀り、東の渤海に臨んで蓬莱を望祀した。
- 春、甘泉で郡国の上計を受けた。二月、建章宮を起こした。夏五月、暦を改めて正月を歳首とし、色は黄を、数は五を尊び、官名を定め音律を調えた(太初の改暦)。因杅将軍 公孫敖を遣わして塞外に受降城を築かせた。
- 秋八月、安定に行幸した。貳師将軍 李広利を遣わして天下の謫民を発し大宛を征させた。蝗が東方から敦煌まで飛来した。
太初二年(BCE103年)
- 春正月、丞相 石慶が薨じた。三月、河東に行幸して后土を祀り、天下に五日間の大酺を許し、膢の祭りを臘祭に準じて行った。
- 夏四月、詔して介山で后土を祀った際の神光の瑞応を述べ、汾陰・安邑の死罪以下を赦した。五月、吏民の馬を籍録して車騎の馬に充てた。秋、蝗害があった。浚稽将軍 趙破奴に二万騎を率いさせ朔方から匈奴を撃たせたが還らなかった。冬十二月、御史大夫 児寛が卒した。
太初三年(BCE102年)
- 春正月、東方の海上を巡った。夏四月、泰山に還って封を修め、石閭で禅を行った。光禄勲 徐自為を遣わして五原の塞外に西北の盧朐まで連なる列城を築かせ、游撃将軍 韓説を屯守させ、強弩都尉 路博徳に居延を築かせた。
- 秋、匈奴が定襄・雲中に侵入し数千人を殺掠し光禄勲の築いた諸亭障を破壊し、さらに張掖・酒泉に侵入して都尉を殺した。
太初四年(BCE101年)
- 春、貳師将軍 李広利が大宛王を斬りその首を得て汗血馬を連れ帰り、「西極天馬の歌」を作った。秋、明光宮を起こした。冬、回中に行幸し、弘農都尉の治所を武関に移して出入りの税を関の吏卒の食糧に充てた。
天漢元年(BCE100年)
- 春正月、甘泉に行幸して泰畤を郊祀した。三月、河東に行幸して后土を祀った。匈奴が漢の使者を帰し、使者を遣わして貢献した。夏五月、天下に大赦した。秋、城門を閉じて奢侈にふける不法の者を大捜索した。謫戍を発して五原に屯させた。
天漢二年(BCE99年)
- 春、東海に行幸し還って回中に行幸した。夏五月、貳師将軍 李広利が三万騎を率いて酒泉から出撃し、匈奴の右賢王と天山で戦い首虜一万余級を得た。また因杅将軍を西河から、騎都尉 李陵に歩兵五千を率いさせて居延の北から出撃させ、単于と戦い首虜一万余級を得たが、李陵の軍は敗れて匈奴に降った。
- 秋、道中で巫を祀ることを禁じ、巫蠱の徒を大捜索した。渠黎など西域六国が使者を遣わして貢献した。泰山・琅邪の群盗 徐勃らが山に拠って城を攻め道路が不通となったため、直指使者 暴勝之らを繍衣に斧を持たせて分遣し逮捕させ、これに関わった刺史・郡守以下はみな誅された。冬十一月、関都尉に詔して東方の群盗と結ぶ豪傑を厳しく取り締まらせた。
天漢三年(BCE98年)
- 春二月、御史大夫 王卿が罪により自殺した。初めて酒の専売(榷酒酤)を始めた。三月、泰山に行幸して封を修め明堂を祀り上計を受け、還って北地に行幸して常山を祀り玄玉を埋めた。夏四月、天下に大赦し、行幸した地の田租を免じた。秋、匈奴が雁門に侵入し、太守は臆病であった罪で棄市となった。
天漢四年(BCE97年)
- 春正月、甘泉宮で諸侯王を朝見させた。天下の七科謫(罪吏・逃亡者・入り婿・商人など七種の者)と勇敢な士を発し、貳師将軍 李広利に騎兵六万・歩兵七万を率いさせ朔方から、因杅将軍 公孫敖に騎兵一万・歩兵二万を率いさせ雁門から、游撃将軍 韓説に歩兵三万を率いさせ五原から、強弩都尉 路博徳に歩兵一万余を率いさせ貳師と合流させて出撃させた。李広利は単于と余吾水のほとりで連日戦い、公孫敖は左賢王と戦って不利となり、ともに引き揚げた。夏四月、皇子 髆を昌邑王に立てた。秋九月、死罪の者は銭五十万を納めれば死一等を減じる令を出した。
太始元年(BCE96年)
- 春正月、因杅将軍 公孫敖が罪により腰斬に処され、郡国の吏民・豪傑を茂陵・雲陽に移した。夏六月、天下に大赦した。
太始二年(BCE95年)
- 春正月、回中に行幸した。三月、詔して、白麟・渥洼の天馬・泰山の黄金という三つの瑞祥にちなみ、鋳造する黄金を麟の足・馬の蹄の形に改め諸侯王に頒賜することとした。秋、旱魃となった。九月、死罪の者を募り銭五十万を納めさせて死一等を減じた。御史大夫 杜周が卒した。
太始三年(BCE94年)
- 春正月、甘泉宮で外国の賓客を饗した。二月、天下に五日間の大酺を許した。東海に行幸して赤い雁を得て「朱雁の歌」を作った。琅邪に行幸して成山で日を祀り、之罘に登り、大海に浮かんで山が万歳を称えたと記した。冬、行幸した地の民に戸ごとに銭五千を、鰥寡孤独に帛人ごとに一匹を賜った。
太始四年(BCE93年)
- 春三月、泰山に行幸し、壬午に高祖を明堂で上帝に配祀し上計を受け、癸未に孝景皇帝を明堂に祀り、甲申に封を修め、丙戌に石閭で禅を行った。夏四月、不其に行幸して交門宮で神人を祀り、神が降臨したかのように向かって拝礼し「交門の歌」を作った。夏五月、建章宮に還って大いに酒宴を開き天下に大赦した。
- 秋七月、趙で蛇が城外から邑内に入り込み孝文廟の下で邑中の蛇と群れ闘い、邑中の蛇が死ぬという異事があった。冬十月甲寅の晦、日食があった。十二月、雍に行幸して五畤を祀り、西の安定・北地に至った。
征和元年(BCE92年)
- 春正月、還って建章宮に行幸した。三月、趙王 彭祖が薨じた。冬十一月、三輔の騎士を発して上林を大捜索し、長安城門を閉じて索とう(捜索)した。十一日で解いたが、これが巫蠱の乱の発端となった。
征和二年(BCE91年)
- 春正月、丞相 公孫賀が獄に下されて死んだ。夏四月、大風が屋根を吹き飛ばし木を折った。閏月、諸邑公主・陽石公主(ともに衛皇后の娘)が巫蠱の罪で死んだ。夏、甘泉に行幸した。
- 秋七月、按道侯 韓説と使者 江充らが太子宮で蠱を掘り出したことに端を発し、壬午、太子は皇后とともに江充を斬り、節をもって兵を発して丞相 劉屈氂と長安で大戦し、死者は数万に及んだ。庚寅、太子は逃亡し、皇后は自殺した。城門に屯兵を置き、太子の発した節と区別するため黄色の房を加えた新たな節を用いることとした。御史大夫 暴勝之・司直 田仁は太子を取り逃した罪に問われ、勝之は自殺し仁は腰斬となった。八月辛亥、太子は湖県で自殺した(戻太子の変)。癸亥、地震があった。九月、趙敬粛王の子 偃を平干王に立てた。匈奴が上谷・五原に侵入し吏民を殺掠した。
征和三年(BCE90年)
- 春正月、雍に行幸して安定・北地に至った。匈奴が五原・酒泉に侵入し都尉二人を殺した。三月、貳師将軍 李広利に七万人を率いさせ五原から、御史大夫 商丘成に二万人を率いさせ西河から、重合侯 馬通に四万騎を率いさせ酒泉から出撃させ、浚稽山まで進んで多くの首を斬った。商丘成は天山まで至ると虜は退き、そのまま車師を降した。李広利は戦いに敗れて匈奴に降った。
- 夏五月、天下に大赦した。六月、丞相 劉屈氂が獄に下されて腰斬となり、妻子は梟首された(貳師将軍と共謀し昌邑王を立てようとした罪による)。秋、蝗害があった。九月、謀反者 公孫勇・胡倩の企てが発覚し、ともに誅された。
征和四年(BCE89年)
- 春正月、東莱に行幸して大海に臨んだ。二月丁酉、雍に隕石が落ち、その音は四百里に聞こえた。三月、鉅定で自ら耕した。泰山に還って封を修め、庚寅に明堂で祀り、癸巳に石閭で禅を行った。夏六月、甘泉に還って行幸した。秋八月辛酉の晦、日食があった。
後元元年(BCE88年)
- 春正月、甘泉に行幸して泰畤を郊祀し、安定に行幸した。昌邑王 髆が薨じた。二月、詔して郊祀の折に鶴の群れが飛来した瑞祥を述べ、天下に大赦した。
- 夏六月、御史大夫 商丘成が罪により自殺した(廟中で酔って歌った罪という)。侍中僕射 莽何羅がその弟 重合侯 馬通と共謀して反乱を企てたが、侍中駙馬都尉 金日磾・奉車都尉 霍光・騎都尉 上官桀がこれを討った。秋七月、地震があり、あちこちで泉が湧き出た。
後元二年(BCE87年)
- 春正月、甘泉宮で諸侯王を朝見させ、宗室に賜与した。二月、盩厔の五柞宮に行幸した。乙丑、皇子 弗陵を皇太子に立てた(のちの昭帝)。丁卯、帝が五柞宮で崩じた(十七歳で即位し、在位五十四年、享年七十一であったという)。未央宮前殿に殯し、三月甲申、茂陵に葬られた。
史論
- 賛にいう。漢は百王の弊を承け、高祖は乱を撥ねて正に返し、文帝・景帝はもっぱら民の休養に努めたが、古の礼文の事にはなお欠けるところが多かった。孝武帝は即位するや卓然と百家を退けて六経を表彰し、天下の俊才を求めて共に功業を興し、太学を興し郊祀を修め、暦を改めて音律を調え、詩楽を作り、封禅の礼を建てて百神を祀り、周の礼制を継いで号令・文章は燦然として後世に伝わるべきものとなった。後嗣はその大業を継ぎ三代の風を得ることができた。武帝ほどの雄才大略をもってなお文帝・景帝の恭倹を改めず民を済っていたなら、詩書に称えられる聖王の功業もこれに勝るものはなかったであろう。