漢書卷五 景帝紀第五

孝景皇帝、諱は啓(字は開)。文帝の太子で母は竇皇后(前188–前141年)。呉楚七国の乱を鎮圧して諸侯王の権を抑え、官制改革や刑罰の緩和を進めた。文帝の治世を継ぎ、後の武帝期の隆盛の基礎を築いた。

年表(15件)

出自と即位

  • 孝景皇帝は諱を啓、字を開という。文帝の太子で、母は竇皇后。後元七年六月に文帝が崩じると、丁未の日に太子が皇帝に即位し、太皇太后 薄氏を尊び、皇后を皇太后とした。九月、西方に彗星が現れた。

元年(BCE156年)

  • 冬十月、詔して古の礼楽の由来を述べ、高廟の酎(正月に仕込み八月に完成する濃醇な酒)を捧げる際の楽舞(武徳・文始・五行の舞)や、孝惠廟での楽舞(文始・五行の舞)の来歴を確認し、孝文皇帝の治世が関所を開いて遠近を一つにし、誹謗の罪を除き肉刑を廃し、長老を賜与し孤独者を扶助し、無欲であって貢献を受けず、罪人の家族を連座させず、無実の者を誅せず、宮刑を除いて人の血統を絶やさなかったことなど、上世の帝王にも及ばぬ徳を挙げ、その廟楽が徳に見合っていないことを憂い、「昭徳の舞」を作るよう命じた。丞相 申屠嘉らは、高皇帝の廟を太祖の廟、孝文皇帝の廟を太宗の廟とし、天子は代々この二廟を祀り、郡国・諸侯もそれぞれ孝文皇帝の太宗廟を立てて使者を遣わし侍祠すべきことを議定して奏上した。
  • 春正月、詔して近年の不作による民の困窮を憂い、痩せた土地の民を肥沃な土地へ移す議を命じた。夏四月、天下に大赦し民に爵一級を賜い、御史大夫 青翟(陶青と伝わる人物であるが、紀年に混乱があるとされる)を代に遣わして匈奴と和親させた。
  • 五月、田租を半分に減じた。秋七月、詔して、官吏が監督対象から飲食を受けた場合の処罰が過重で、逆に財物を受けたり安く買い高く売ったりする不正の処罰が軽すぎることを是正するため、廷尉と丞相に法の改定を命じた。廷尉 信は丞相と議し、飲食の授受はその代価を弁償させて罪に問わず、それ以外の物品の授受や不正取引は贓物の罪として没収する等の新たな令を定めた。

二年(BCE155年)

  • 冬十二月、西南に彗星が現れた。天下の男子に二十歳から傅籍(力役義務)を課すこととした(従来は二十三歳からであった)。
  • 春三月、皇子 徳を河間王、閼を臨江王、余を淮陽王、非を汝南王、彭祖を広川王、発を長沙王に立てた。
  • 夏四月壬午、太皇太后(薄太后)が崩じた。六月、丞相 嘉(申屠嘉)が薨じ、旧相国 蕭何の孫 係を列侯に封じた。秋、匈奴と和親した。

三年(BCE154年)

  • 冬十二月、詔して、襄平侯 嘉の子 恢説が不孝の罪で謀反を企てて嘉を陥れようとした事件について、嘉本人とその妻子で連座すべき者を赦して故爵を復し、恢説とその妻子は法のとおり処断した。
  • 春正月、淮陽王の宮の正殿が火災に遭った。呉王 濞・膠西王 卬・楚王 戊・趙王 遂・済南王 辟光・菑川王 賢・膠東王 雄渠がそろって挙兵し反乱を起こした(呉楚七国の乱)。天下に大赦し、太尉 周亜夫・大将軍 竇嬰に兵を率いさせて撃たせ、御史大夫 晁錯を斬って七国に謝した。
  • 二月壬子の晦、日食があった。諸将が七国を破り、斬首十余万級、呉王濞を丹徒で追い斬り、膠西王卬・楚王戊・趙王遂・済南王辟光・菑川王賢・膠東王雄渠はみな自殺した。
  • 夏六月、詔して、呉王濞らの首謀者はすでに滅び、これに従わざるを得なかった吏民や、逃亡して従軍を免れた者はみな赦すこととし、また楚元王の子 蓺らも反乱に加わったが、宗室を辱めることを忍びずその罪籍を除くこととした。平陸侯 劉礼を楚王に立てて楚元王の後を継がせ、皇子 端を膠西王、勝を中山王に立て、民に爵一級を賜った。

四年(BCE153年)

  • 春、諸関にふたたび伝(通行証)の使用を義務づけた(七国の乱の余党に備えたもの)。
  • 夏四月己巳、皇子 栄を皇太子、徹を膠東王に立てた。六月、天下に大赦し民に爵一級を賜った。秋七月、臨江王 閼が薨じた。十月戊戌の晦、日食があった。

五年(BCE152年)

  • 春正月、陽陵邑を造営した(景帝の寿陵)。夏、民を募って陽陵に移住させ、銭二十万を賜った。公主を匈奴単于に嫁がせた。

六年(BCE151年)

  • 冬十二月、雷雨が続いた。秋九月、皇后 薄氏が廃された。

七年(BCE150年)

  • 冬十一月庚寅の晦、日食があった。春正月、皇太子 栄を廃して臨江王とした。二月、太尉の官を廃した。夏四月乙巳、王氏を皇后に立て、丁巳、膠東王 徹を皇太子に立て、父の後継ぎとなる民に爵一級を賜った。

中元年(BCE149年)

  • 夏四月、天下に大赦し民に爵一級を賜い、旧御史大夫 周苛・周昌の孫と子を列侯に封じた。

中二年(BCE148年)

  • 春二月、諸侯王が薨じた際や列侯が初めて封じられ国に赴く際の諡・誄・策の奏上手続きを定めた(大鴻臚・光禄大夫・太中大夫などの職掌をめぐっては後世の考證で異同が指摘されている)。王が薨じれば光禄大夫を遣わして弔祭し喪事を見届けて嗣子を立て、列侯が薨じれば太中大夫を遣わして同様の礼を行い、葬儀に発する民夫は三百人を限度とした。
  • 匈奴が燕に侵入した。死刑執行の方法を磔から棄市に改めた。
  • 三月、臨江王 栄が太宗廟の土地を侵した罪に問われ、中尉に召喚されて自殺した。夏四月、西北に彗星が現れた。皇子 越を広川王、寄を膠東王に立てた。
  • 秋七月、郡守を太守に、郡尉を都尉に改称した。九月、かつて楚・趙の傅・相・内史でありながら諫めて死んだ者四人(張尚・趙夷吾・建徳・王悍)の子をみな列侯に封じた。甲戌の晦、日食があった。

中三年(BCE147年)

  • 冬十一月、諸侯国の御史大夫の官を廃した(諸侯王の権を抑えるため)。春正月、皇太后が崩じたと記されるが、これは廃后 薄氏の死を誤り伝えたものとみられる。
  • 夏、旱魃となり酒の販売を禁じた。秋九月、蝗害があり、西北に彗星が現れ、戊戌の晦に日食があった。皇子 乗を清河王に立てた。

中四年(BCE146年)

  • 春三月、徳陽宮(景帝自らの廟)を起こした。御史大夫 綰(衛綰)は、身長五尺九寸以上で歯がまだ生え揃わない良馬の関外持ち出しを禁じることを奏上した。
  • 夏、蝗害があった。秋、陽陵の造営に徴発された徒刑者のうち死罪に当たる者を赦し、腐刑(宮刑)を望む者にはこれを許した。十月戊午、日食があった。

中五年(BCE145年)

  • 夏、皇子 舜を常山王に立てた。六月、天下に大赦し民に爵一級を賜った。秋八月己酉、未央宮の東闕が火災に遭った。諸侯国の丞相を「相」と改称した(諸侯国の官制を漢朝と区別し権を抑えるため)。
  • 九月、詔して、法令は暴虐と邪を禁じるためのものであり、獄事は人の生死を左右する重大事であるとし、官吏が賄賂で法を曲げたり、徒党を組んで苛察・厳酷を明察と偽ったりすることを戒め、無実の者を苦しめず有罪の者を見逃さぬよう、疑わしい獄事はすべて上申して議させることとした。

中六年(BCE144年)

  • 冬十月、雍に行幸して五畤を郊祀した。十二月、諸官名を改め、偽の黄金を鋳造した者を棄市に処す律を定めた。
  • 春三月、雨に雪が混じった。夏四月、梁王(孝王)が薨じ、梁国を五つに分けて孝王の子五人をみな王に立てた。
  • 五月、詔して、車馬・衣服が官位にふさわしくない吏の実態を戒め、長吏・二千石の車には朱塗りの両側の泥よけを、千石から六百石には左側だけの朱塗りを義務づけるなど服制を定め、三輔に法令違反の摘発を命じた。また酷吏が刑を過重に科す弊を改めるため、笞刑を減じ箠(むち打ちの杖)の規格を定めた(詳細は刑法志にある)。
  • 六月、匈奴が雁門から武泉に至り、上郡に侵入して官営の牧馬を奪い、戦死した吏卒は二千人に及んだ。秋七月辛亥の晦、日食があった。

後元年(BCE143年)

  • 春正月、詔して、獄事は重大事であり人には智愚があり官には上下があるため、疑わしい獄は担当官が決しかねる場合は廷尉に移すこととし、たとえその判断が誤っていても罪を問わぬこととして、獄を治める者に寛容を旨とさせた。
  • 三月、天下に大赦し民に爵一級、中二千石・諸侯相には右庶長の爵を賜った。夏、五日間の大酺を許し、民に酒の販売を許した。五月、地震があった。秋七月乙巳の晦、日食があった。条侯 周亜夫が獄に下されて死んだ。

後二年(BCE142年)

  • 冬十月、列侯を国に帰す制を緩めた。春、匈奴が雁門に侵入し、太守 馮敬が戦死したため、車騎・材官を発して雁門に屯させた。この年不作のため内郡での馬の飼料用穀物の使用を禁じ没収した。
  • 夏四月、詔して、彫刻を凝らした器物は農事を損ない、錦繍の組紐は女工を損なうとし、農事が損なわれれば飢え、女工が損なわれれば寒さの原因となることを説き、自ら耕し皇后自ら養蚕して天下の模範となり、貢献を受けず官の費用を減じ、強者が弱者を奪わず多数が少数を虐げぬことを求めた。あわせて、詐って吏を名乗る者や賄賂で私腹を肥やし民を搾取する官吏を厳しく取り締まるよう二千石に命じた。
  • 五月、詔して、廉直な士は寡欲で満足しやすいとし、それまで資産十算(百二十万銭相当)以上でなければ官に就けなかった規定を四算に引き下げ、商人籍の者は依然として官に就けないが、資産の乏しい廉士が長く任用されぬことのないようにした。秋、大旱となった。

後三年(BCE141年)

  • 春正月、詔して農業を天下の本とし、黄金珠玉は飢寒を満たせぬと説き、不作の年が続くのは末業に携わる者が多く農民が少ないためだとして、郡国に農桑の奨励と植樹による衣食の確保を命じ、民を使役して金玉を採らせる官吏やこれを黙認する二千石を贓物の罪で処断することとした。
  • 皇太子が冠礼を行い、父の後継ぎとなる民に爵一級を賜った。甲子、帝が未央宮で崩じた(三十二歳で即位し、在位十六年、享年四十八であったという)。遺詔により諸侯王・列侯には馬二駟(八頭)、二千石の吏には黄金二斤、吏民には戸ごとに銭百を賜い、宮人を出して家に帰し終身の課役を免除した。
  • 二月癸酉、陽陵に葬られた(崩御から埋葬まで十日)。

史論

  • 賛にいう。孔子は「この民は三代(夏殷周)の昔と同じく、正道をそのまま行える民である」と言った。まことにそのとおりである。周秦の弊政は法網が厳密で姦悪を防ぎきれなかったが、漢は興ってから煩雑・苛酷な政を掃い、民と共に休息した。孝文帝がこれに恭倹を加え、孝景帝がその事業を継いで、五、六十年の間に風俗は移り変わり、民は淳朴で厚みを増した。周に成王・康王の治世があったように、漢には文帝・景帝の美事があったといえる。