漢書卷四 文帝紀第四

孝文皇帝、諱は恒(字は常)。高祖の中子で母は薄姫(前202–前157年)。代王として十七年を過ごした後、諸呂誅滅を経て大臣らに迎えられ即位。倹約と刑罰の緩和を旨とし、肉刑廃止・田租廃止など寛仁の治で知られる。在位二十三年。

年表(18件)

出自と即位の経緯

  • 孝文皇帝は諱を恒、字を常という。高祖の中子で、母は薄姫。高祖十一年、陳豨を誅して代の地を平定した際、代王に立てられ中都を都とした。
  • 代王十七年目の秋、高后が崩じると諸呂が乱を謀ったが、丞相 陳平・太尉 周勃・朱虚侯 劉章らが共にこれを誅し、代王を天子に迎え立てることを謀った(詳細は高后紀・高五王伝にある)。大臣が代王を迎える使者を出すと、郎中令 張武らは「漢の大臣はもと高帝時代の将で謀略に長け、今回の迎立も真意が知れない。病と称して赴かず、事態を見極めるべきだ」と諫めた。
  • しかし中尉 宋昌は反論し、劉氏が天下の人心をすでに得ていること、諸侯王の封地が犬牙のように入り組んで漢室の守りとなっていること、秦の苛政を廃して漢が徳を布いたため人心が安定していることの三点を挙げ、さらに朱虚侯・東牟侯という近親が朝廷内におり、高帝の子は淮南王と代王のみで代王が年長・賢明であることから、大臣たちが天下の心に従って代王を迎えようとしているのだと説いた。
  • 代王はなお迷い、占うと「大横」の兆を得た。その繇(占い言葉)に「余は天王となり、夏の啓のごとく先業を光らせん」とあった。代王は太后の弟 薄昭を遣わして太尉 周勃らに真意を確かめさせ、昭が「信ずるに足る」と報告すると、ついに宋昌を驂乗とし張武ら六人と共に長安へ向かった。高陵で宋昌を先に長安へ行かせて様子を探らせ、丞相以下の出迎えを確認して渭橋まで進んだ。群臣は拝謁して臣と称し、代王は答拝した。
  • 太尉勃が内密に話したいと申し出たが、宋昌は「公の事なら公然と言うべきで、王には私事はない」と退けた。勃は跪いて天子の璽を上ろうとしたが、代王は「邸に至ってから議そう」と辞退した。閏月己酉、代の邸に入った(諸呂誅滅からわずか三十七日後のことである)。
  • 群臣は丞相 陳平・太尉 周勃・大将軍 柴武・御史大夫 張蒼・宗正 劉郢・朱虚侯 劉章・東牟侯 劉興居・典客 劉掲の連名で正式に勧進し、少帝や現在の諸王がいずれも孝惠帝の実子でなく宗廟を奉ずるにふさわしくないとして代王の即位を求めた(あわせて陰安侯=高帝の兄伯の妻、頃王后=高帝の兄仲の妻で追諡された人物、燕王沢改め琅邪王らの議も付された)。
  • 代王は西向きに三度、南向きに二度辞譲したが、丞相平らの固い願いにより、ついに天子の位に即いた。太僕 嬰・東牟侯 興居に宮中を清めさせ、天子の法駕をもって代の邸へ迎えた。皇帝はその日のうちに未央宮に入り、夜には宋昌を衛将軍として南北軍を統べさせ、張武を郎中令として宮中の巡察に当たらせた。
  • 前殿に還って詔を下し、諸呂の乱の顛末を述べて天下に大赦し、民に爵一級を、女子には百戸ごとに牛と酒を賜い、五日間の酺(会飲)を許した。

元年(BCE179年)

  • 冬十月辛亥、皇帝は高廟に謁見し、車騎将軍 薄昭を遣わして皇太后を代から迎えた。詔して、呂産・呂禄が権を専らにし灌嬰の兵を用いて劉氏に代わろうとしたが、灌嬰が滎陽で諸侯と結んでこれを誅し、丞相平・太尉勃が軍を奪い、朱虚侯章が真っ先に呂産を斬り、太尉勃は襄平侯通と共に北軍に入り、典客掲が呂禄の印を奪ったことを述べ、功に応じて太尉勃に邑一万戸・金五千斤、丞相平・将軍嬰に各三千戸・金二千斤、朱虚侯章・襄平侯通に各二千戸・金千斤を加増し、典客掲を陽信侯に封じ金千斤を賜った。
  • 十二月、趙幽王の子 遂を趙王に立て、琅邪王 沢を燕王に徙し、呂氏が奪った斉・楚の地を返還し、罪人の妻子を連座させる収帑相坐の律令を廃止した。
  • 正月、有司が早く太子を立てるよう請うたが、文帝は「賢者を広く求めて天下を譲る道もあるのに、太子を立てるのは自らの不徳を重ねることになる」と辞退した。有司は「立嗣は必ず子とするのが古来の道である」と重ねて請い、子の啓(のちの景帝)が敦厚慈仁であるとして太子に立てることを許した。あわせて天下の民で父の後継ぎとなる者すべてに爵一級を賜い、将軍 薄昭を軹侯に封じた。
  • 三月、有司の請いにより皇太后が太子の母 竇氏を皇后に立てた。詔して、春の万物が自ら楽しむ折に鰥寡孤独窮困の民が死に瀕していることを憂い、賑済の令を議させた。老人には帛でなく肉を、粥米でなく新米を給するべきとし、県道に八十歳以上の者へ月ごとに米一石・肉二十斤・酒五斗を、九十歳以上にはさらに帛二匹・絮三斤を賜う定めを設け、長吏・丞・尉・嗇夫令史が実施し、都吏に巡察させた。ただし刑に服す者や耐罪以上の罪人はこの令の対象外とした。
  • 楚元王 交が薨じた。四月、斉・楚の地で地震があり二十九の山が同日に崩れ、洪水が湧き出た。六月、郡国に貢献の停止を命じて天下に恵を施し、代から従って功のあった者を論功した。中尉 宋昌を衛将軍に取り立てて壮武侯に封じ、従った六人はみな九卿に至った。また高帝に従い蜀漢に入った列侯六十八人に邑三百戸を加増し、二千石以上で高帝に従った潁川守 尊ら十人に六百戸、淮陽守 申屠嘉ら十人に五百戸、衛尉 足ら十人に四百戸を賜い、淮南王の舅 趙兼を周陽侯、斉王の舅 駟鈞を靖郭侯、旧常山丞相 蔡兼を樊侯に封じた。

二年(BCE178年)

  • 冬十月、丞相 陳平が薨じた。詔して、列侯が長安に留まり続けて邑への輸送の労苦が続いていることを憂い、朝廷の官職にある者や特に留任を命じた者を除き、列侯を各自の国へ帰らせることとした。
  • 十一月癸卯の晦、日食があった。詔して自らの不徳を省み、賢良方正で直言極諫できる人材を求めた。あわせて衛将軍の軍を廃し、太僕の馬を減らして伝置に回した。
  • 春正月丁亥、詔して農業が天下の根本であるとし、自ら籍田を耕して宗廟の粢盛に供えることとした。罪により労役に服す者や種食を借りて未返済の者を赦免した。
  • 三月、有司の請いにより皇子を諸侯王に立てることを議した。趙幽王が幽閉されて餓死したことを憐れみ、その太子 遂を趙王に立てていたが、遂の弟 辟彊、および斉悼恵王の子で功のある朱虚侯 章・東牟侯 興居を王に立てることとし、辟彊を河間王、章を城陽王、興居を済北王とし、あわせて皇子 武を代王、参を太原王、揖を梁王に立てた。
  • 五月、詔して古の「進善の旌」「誹謗の木」(諫言を促す古制)を引き、法にある誹謗・訞言の罪を廃止した。
  • 九月、初めて郡守と銅虎符・竹使符を作り、兵の徴発の信物とした。詔して農本の意を重ね、天下の民に今年の田租の半分を賜った。

三年(BCE177年)

  • 冬十月丁酉の晦、十一月丁卯の晦、相次いで日食があった。詔して、丞相 周勃に代わって自ら列侯を率いて国に帰るべきだとし、丞相勃を免じて国へ帰らせた。十二月、太尉 潁陰侯 灌嬰を丞相とし、太尉の官を廃した。
  • 夏四月、城陽王 章が薨じた。淮南王 長が辟陽侯 審食其をその家で殺した。
  • 五月、匈奴が北地・河南に入り込んで寇掠した。上は甘泉に行幸し、丞相 灌嬰を遣わして匈奴を撃たせると、匈奴は退いた。上は甘泉から高奴へ赴き、太原に行幸して旧臣らと再会し論功行賞を行い、諸民の里ごとに牛酒を賜い、晋陽・中都の民の三年分の租税を免除して十余日太原に留まった。
  • 済北王 興居は帝が代にいると聞き、自ら匈奴を撃とうとして反し、滎陽を襲おうと兵を発した。詔して丞相の兵を罷め、棘蒲侯 柴武を大将軍として四将軍・十万の衆を率いさせ討伐させ、祁侯 繒賀を将軍として滎陽に軍を進めさせた。
  • 秋七月、上は太原から長安に還った。詔して、済北の吏民で兵が至る前に自ら定まった者や城邑を挙げて降った者はみな赦して官爵を復し、興居に加わった者でも離れて帰順した者は赦すとした。八月、済北王 興居を捕らえたが自殺し、興居に加わった者も赦された。

四年(BCE176年)

  • 冬十二月、丞相 灌嬰が薨じた。夏五月、劉氏の属籍にある家には徴発を課さないこととした。諸侯王の子に邑各二千戸を賜った。
  • 秋九月、斉悼恵王の子七人を列侯に封じた。絳侯 周勃が罪により逮捕されて廷尉の詔獄に送られた。顧成廟を造営した。

五年(BCE175年)

  • 春二月、地震があった。夏四月、盗鋳銭の禁令を除いて民の私鋳を許し、四銖銭に改鋳した。

六年(BCE174年)

  • 冬十月、季節外れに桃李が花を咲かせた。十一月、淮南王 長が謀反を企てたことが露見し、蜀郡厳道への流刑に処されたが、道中で死んだ。

七年(BCE173年)

  • 冬十月、列侯の太夫人・夫人、諸侯王の子、二千石の吏をみだりに徴発・逮捕することを禁じた。夏四月、天下に大赦した。六月癸酉、未央宮東闕の罘罳(連なる楼閣)が火災に遭った。

八年(BCE172年)

  • 夏、淮南厲王 長の子四人を列侯に封じた。東方に長星(彗星の類)が現れた。

九年(BCE171年)

  • 春、大旱となった。

十年(BCE170年)

  • 冬、甘泉に行幸した。将軍 薄昭が死んだ。漢の使者を殺した罪により、文帝は誅を忍びず公卿を遣わして酒を飲ませ自裁を促したが、薄昭が応じなかったため群臣が喪服を着て弔問に赴くと、ついに自殺したという。

十一年(BCE169年)

  • 冬十一月、代に行幸した。春正月、代から還った。夏六月、梁王 揖が薨じた。匈奴が狄道を侵した。

十二年(BCE168年)

  • 冬十二月、河が東郡で決壊した。春正月、諸侯王の女に邑各二千戸を賜った。二月、孝惠帝の後宮の美人を出して嫁ぐことを許した。三月、関所を通る際の伝(通行証)を不要とした。
  • 詔して、農業を勧めて十年になるが田野は開墾が進まず不作の年には民が飢えることを憂い、勧農が行き届かぬ吏の怠慢を責め、農民に今年の租税の半分を賜った。また孝悌・力田・三老・廉吏を天下の模範として重んじ、謁者を遣わして帛・力田・銭などを差等をつけて賜い、戸口数に応じて三老・孝悌・力田の定員を置いて教化に当たらせた。

十三年(BCE167年)

  • 春二月甲寅、詔して自ら天下の農耕を率いて粢盛に供え、皇后が親蚕して祭服に供える礼儀を定めた。夏、秘祝の官(凶事を下に移す祈祷)を廃止した(詳細は郊祀志にある)。
  • 五月、肉刑の法を廃止した(詳細は刑法志にある)。六月、詔して農業を天下の本と重ね、田租税を全廃し、天下の孤寡に布帛・絮を差等をつけて賜った。

十四年(BCE166年)

  • 冬、匈奴が辺境を侵し、北地都尉 卬(孫卬)を殺した。三将軍を隴西・北地・上郡に配置し、中尉 周舎を衛将軍、郎中令 張武を車騎将軍として渭北に布陣させ、車千乗・騎卒十万で備えた。上は自ら軍を労い教令を申し渡し、吏卒に賜与し、自ら匈奴を親征しようとしたが群臣が諫め、皇太后が強く止めたため断念した。そこで東陽侯 張相如を大将軍、建成侯 董赫・内史 欒布を将軍として匈奴を撃たせ、匈奴は退いた。
  • 春、詔して即位から十四年、才の乏しさで天下を治める慚愧を述べ、諸祭祀の壇場・珪幣を増やしつつも、祭祀は民のためであって自らの福を祈るものではないとし、祠官には敬をもって仕えるが祈願はさせぬこととした。

十五年(BCE165年)

  • 春、黄龍が成紀に現れた。上は郊祀の議を命じ、公孫臣が服色の改正を、新垣平が五帝の廟の造営を説いた(詳細は郊祀志にある)。
  • 夏四月、上は雍に行幸し初めて五帝を郊祀し、天下に大赦し、久しく絶えていた名山大川の祭祀を復した。
  • 九月、諸侯王・公卿・郡守に賢良で直言極諫できる者を挙げさせ、自ら策問してその言を採用した(詳細は鼂錯伝にある)。

十六年(BCE164年)

  • 夏四月、上は渭陽で五帝を郊祀した。五月、斉悼恵王の子六人と淮南厲王の子三人をみな王に立てた。
  • 秋九月、玉杯を得た(新垣平が人に献じさせた偽物であった)。「人主延寿」と刻まれていたことから天下に大いに酺を許し、翌年から改元することとした。

後元年(BCE163年)

  • 冬十月、新垣平の詐術が発覚し、謀反を企てたとして三族を誅された。春三月、孝惠皇后 張氏が薨じた(呂氏に連なるとして北宮に廃されていたため「崩」と記されない)。
  • 詔して、近年しばしば不作が続き水旱・疾疫の災いが重なることを深く憂い、自らの政に過ちがなかったか、また百官の奉養や無用の事業への浪費、田地に対して人口が増えたにもかかわらず食が乏しい実情の原因を、丞相・列侯・吏二千石・博士とともに議させた。

後二年(BCE162年)

  • 夏、雍の棫陽宮に行幸した。六月、代王 参が薨じた。
  • 匈奴と和親した。詔して、辺境の不寧の責は自らの不徳にあると自省し、久しく続く匈奴との紛争を憂い、使者を重ねて遣わして単于に和親の意を伝え、旧怨を捨てて今年から和親を始めることを定めた。

後三年(BCE161年)

  • 春二月、代に行幸した。

後四年(BCE160年)

  • 夏四月丙寅の晦、日食があった。五月、天下に大赦し、官奴婢を免じて庶人とした。雍に行幸した。

後五年(BCE159年)

  • 春正月、隴西に行幸した。三月、雍に行幸した。秋七月、代に行幸した。

後六年(BCE158年)

  • 冬、匈奴の三万騎が上郡に、三万騎が雲中に侵入した。中大夫令 免を車騎将軍として飛狐に屯させ、旧楚相 蘇意を将軍として句注に、将軍 張武を北地に、河内太守 周亜夫を将軍として細柳に、宗正 劉礼を将軍として霸上に、祝茲侯 徐厲を将軍として棘門に配して胡に備えた。
  • 夏四月、大旱・蝗害があった。諸侯に貢献を求めず、山沢の禁を緩め、服御の品を減らし、郎吏の員数を減らし、倉庾を開いて民を賑わせ、民に爵を売ることを許した。

後七年(BCE157年)

  • 夏六月己亥、帝が未央宮で崩じた(二十二歳で即位し、在位二十三年、享年四十六であった)。
  • 遺詔して、死は天地自然の理であり深く哀しむべきではないとし、当世が生を喜び死を厭って厚葬・重服で民の業と生を損なっていることを良しとせず、自らの喪も簡素にするよう命じた。天下の吏民には喪に臨むこと三日で服を脱がせ、婚姻・祭祀・飲酒食肉を禁じず、喪服の期間は大紅十五日・小紅十四日・纖七日として釈服する(日をもって月に代える制)とし、絰帯は三寸を超えず、布車や兵器の儀仗を用いず、民を発して宮殿で哭かせることも禁じた。霸陵は山川の自然のままとして墳を築かず、後宮の夫人以下少使に至るまで家に帰した。
  • 中尉 周亜夫を車騎将軍、属国 悍を将屯将軍、郎中令 張武を復土将軍とし、近県の卒一万六千人・内史の卒一万五千人を発して墓穴を築かせ、諸侯王以下孝悌力田に至るまで金銭帛を差等をつけて賜った。乙巳、霸陵に葬られた(崩御から埋葬まで七日)。

史論

  • 賛にいう。孝文帝は在位二十三年、宮室・苑囿・車騎・服御を増やすことなく、民に不便な制度があればすぐに廃して民の利とした。かつて露台を造ろうとして工匠に見積もらせたところ百金(中流の家十軒分の資産)かかると知り、「私は先帝の宮室を継いだだけでも慚愧に堪えぬのに、どうして台などいるものか」と言って中止した。
  • 寵愛した慎夫人の衣は裾を引かず、帷帳に文繍を施さず、質朴を天下に示した。霸陵の造営もみな瓦器を用い、金銀銅錫の飾りを禁じ、山の形をそのまま用いて墳を起こさなかった。
  • 南越の尉佗が自ら帝を称したときも、その兄弟を厚遇して徳をもって懐柔し、佗はついに臣と称した。匈奴とは和親を結んだが、後に約に背いて侵入した際も、辺境の守りを固めるにとどめ深入りの兵を発さず、民を煩わせることを恐れた。呉王が病と偽って朝見しないときも几杖を賜って寛容に接した。袁盎らの諫言が痛切であっても常に受け入れて用いた。張武らが賄賂を受けたことが発覚したときも、かえって賞賜を加えて恥じ入らせ、専ら徳をもって民を教化した。こうして海内は富み栄えて礼義が興り、刑獄に問われる者は年に数百人に過ぎず、刑罰がほとんど用いられないまでになった。ああ、仁なるかな。