漢書卷三 高后紀第三

高皇后呂氏、諱は雉(字は娥姁)。高祖の皇后で惠帝の母(?–前180年)。惠帝崩後、少帝を立てて臨朝し天子の政務を代行、呂氏一族を諸王・列侯に取り立てた。崩後に呂氏一族は誅滅され、大臣らは文帝を擁立した。

年表(10件)

出自と臨朝

  • 高皇后呂氏は諱を雉、字を娥姁という。惠帝を生み、高祖を助けて天下を平定した。父・兄で高祖の代に侯となった者は三人いる(臨泗侯 呂公、周呂侯 呂澤、建成侯 呂釋之)。
  • 惠帝即位に伴い呂后を皇太后と尊んだ。太后は惠帝の姉 魯元公主の娘を皇后に立てたが子がなく、後宮の美人の子を我が子と偽って太子とした。惠帝が崩じるとその太子が即位したが年少であったため、太后が臨朝して天子の政務を代行した。天下に大赦し、兄の子である呂台・呂産・呂禄、および台の子 呂通の四人を王に立て、呂氏一族六人を列侯に封じた(詳細は外戚伝にある)。

元年(BCE187年)

  • 春正月、詔して「三族の罪」「妖言令」(重罪連座・言論弾圧の法)を廃止した。孝惠帝が生前に廃止を望みながら未決のまま崩じたためである。
  • 二月、民に爵戸一級を賜り、初めて孝弟力田の官(二千石一人)を置いて農事と孝悌の奨励に当てた。
  • 夏五月丙申、趙王宮の叢台が火災に遭った。孝惠帝の後宮の子である強を淮陽王、不疑を恒山王、弘を襄城侯、朝を軹侯、武を壺関侯に立てた。
  • 秋、桃李が季節外れに花を咲かせた。

二年(BCE186年)

  • 春、詔して功臣の序列を定め高廟に記録する方針を示し、丞相 陳平が絳侯 周勃・曲周侯 酈商・潁陰侯 灌嬰・安国侯 王陵らと議して奏上した。列侯には功の高下により餐銭・奉邑を賜ることとした。
  • 春正月乙卯、羌道・武都道(隴西・武都両郡の県)で地震があり山が崩れた。夏六月丙戌の晦、日食があった。秋七月、恒山王 不疑が薨じた。八銖銭を発行した。

三年(BCE185年)

  • 夏、長江・漢水が氾濫し、流民四千余家が出た。
  • 秋、昼間に星が見えた。

四年(BCE184年)

  • 夏、少帝は自分が皇后の実子でないと知って怨言を発したため、皇太后はこれを永巷に幽閉した。太后は詔して「天下を治める者は天のように民を覆い、地のように容れ、民と歓びを通じ合わせて世を治めるべきだが、今の皇帝は病んで昏乱し、宗廟を継ぎ得ない」として、群臣に代立を議させた。
  • 五月丙辰、恒山王 弘を皇帝に立てた。

五年(BCE183年)

  • 春、南粤王 尉佗が自ら南武帝と称した。
  • 秋八月、淮陽王 彊が薨じた。九月、河東・上党の騎兵を発して北地に屯させた。

六年(BCE182年)

  • 春、昼間に星が見えた。夏四月、天下に大赦し、長陵令の秩を二千石に上げた。六月、長陵に城壁を築いた。匈奴が狄道を侵し阿陽を攻めた。五分銭を発行した。

七年(BCE181年)

  • 冬十二月、匈奴が狄道を侵し二千余人を略奪した。
  • 春正月丁丑、趙王 友が幽閉された邸で餓死した。己丑の晦、日食が皆既に至った。梁王 呂産を相国、趙王 呂禄を上将軍とし、営陵侯 劉澤を琅邪王に立てた(この一連の記事の配列には錯簡の疑いがある)。
  • 夏五月辛未、詔して太上皇の妃 昭霊夫人、高帝の兄 武哀侯、高帝の姉 宣夫人に諡号を追贈することを議させ、丞相 陳平らが昭霊夫人を昭霊后、武哀侯を武哀王、宣夫人を昭哀后とする号を奏請した。
  • 六月、趙王 恢が自殺した。秋九月、燕王 建が薨じた。南越が長沙を侵したため、隆慮侯 竈(周氏、高祖の功臣)に兵を率いさせて撃たせた。

八年(BCE180年)

  • 春、中謁者 張釋卿を列侯に封じ、宮中に仕える宦者の令・丞にはみな爵関内侯と食邑を賜った。
  • 夏、長江・漢水が氾濫し、流民一万余家が出た。
  • 秋七月辛巳、皇太后が未央宮で崩じた。遺詔により諸侯王には各千金、将相・列侯から郎吏に至るまで差等をつけて賜与し、天下に大赦した。
  • 上将軍 呂禄・相国 呂産が兵権と政務を独占していたが、自らが高皇帝の約(劉氏でない者は王とせず、功のない者は侯としないという盟約)に背いていることを知り、大臣・諸侯王に誅されることを恐れて謀反を企てた。
  • 斉悼恵王の子である朱虚侯 劉章は、呂禄の娘を妻としていたためこの謀を知り、兄の斉王に人を遣わして兵を発し西進するよう促した。章は自ら太尉 周勃・丞相 陳平と呼応して諸呂を誅そうとした。斉王は兵を発し、さらに琅邪王 劉沢を欺いてその国の兵をあわせ率いて西へ向かった。呂産・呂禄らは大将軍 灌嬰に兵を率いさせて迎撃させたが、嬰は滎陽に至ると斉王と連携し、呂氏の変を待って共に誅する策を取った。
  • 太尉 周勃と丞相 陳平は、曲周侯 酈商の子 酈寄が呂禄と親しいことを利用し、酈商を人質に取って寄に呂禄を欺かせた。寄は「劉氏・呂氏の王はいずれも大臣の議で定まったこと、太后が崩じ帝は幼い今、将軍印を返して太尉に軍を委ね、国に帰るべきだ」と説いた。呂禄はこの計を良しとしたが、呂氏の一族の中には不利と見て躊躇する者もあり、決めかねていた。
  • 呂禄は酈寄を信じて共に出遊し、叔母の呂嬃(呂后の妹、樊噲の妻)のもとに立ち寄ったところ、嬃は「お前は将軍でありながら軍を捨てるのか。呂氏はもはや行き場がない」と怒り、珠玉宝器をことごとく堂下に散らして「もはや他人のために守るものではない」と言った。
  • 八月庚申、平陽侯 曹窋が御史大夫の任にあって相国 呂産の謀議を知り、斉から来た郎中令 賈寿が産を責めて「王(呂産)が早く国に帰らなかったため、今行こうとしても遅い」と告げ、灌嬰が斉・楚と連合した状況を産に伝えた。曹窋はこれを聞いて丞相 陳平・太尉 周勃に急報した。
  • 周勃は北軍に入ろうとしたが叶わなかった。符節を管理していた襄平侯 紀通が、節を持って勃を北軍に入れさせた。勃はさらに酈寄と典客 劉掲に呂禄を説かせ「帝は太尉に北軍を守らせようとしている。将軍印を返して国に帰らねば禍が起こる」と告げると、禄は印を解いて典客に預け、兵を太尉に授けた。
  • 勃は軍門に入り「呂氏に味方する者は右肩を、劉氏に味方する者は左肩を脱げ」と令すると、軍はみな左肩を脱いだ。こうして勃は北軍を掌握した。
  • なお南軍が残っていたため、丞相平は朱虚侯 章を召して勃を助けさせ、勃は章に軍門の監視を命じ、平陽侯に衛尉へ相国 産を殿門に入れぬよう告げさせた。産は呂禄がすでに北軍を離れたことを知らず、未央宮に入って乱を起こそうとしたが、殿門で阻まれて右往左往した。
  • 平陽侯が太尉勃に急報したが、勃はなお勝てるか確信できず誅殺を公言できなかった。そこで朱虚侯章に「急ぎ宮中に入って帝を守れ」と命じた。章は勃から兵千人を借りて未央宮の掖門に入り、庭にいた産を見つけて日暮れ時に撃った。産は逃げたが、天が大風を吹かせて従者は乱れ戦う者がなく、郎中府の吏の詰所の厠で産を追い詰めて殺した。
  • 章が産を殺すと、帝は謁者に節を持たせて章を労おうとしたが、章はその節を奪い取り、謁者の車に同乗してその節の威を借りて長楽衛尉 呂更始を斬った。北軍に戻って太尉勃に報告すると、勃は起って章を拝賀し「憂うべきは産のみであった。今すでに誅した。天下は定まった」と言った。
  • 辛酉、呂禄を斬り、呂嬃を鞭打って殺し、諸呂の男女を年齢にかかわらずことごとく捕らえて斬った。大臣たちは、少帝およびその三人の弟である王たちがいずれも孝惠帝の実子ではないと密議し、これも誅して文帝を尊立した(詳細は周勃・高五王伝にある)。

史論

  • 賛にいう。孝惠・高后の時代、天下は戦国の苦しみからようやく離れ、君臣ともに無為を旨としたため、惠帝は垂拱して治め、高后は女主として政を行ったが宮中の外にまでは及ばず、それでも天下は安らかで刑罰はほとんど用いられず、民は農耕に励んで衣食は年々豊かになった。