漢書卷二 惠帝紀第二
孝惠皇帝、諱は盈(字は滿)。高祖の太子で母は呂皇后(前211–前188年)。十七歳で即位し在位七年、寛仁の主とされるが、呂太后の専横下で趙王如意の死や戚夫人の惨状に心を痛め、政務を聴かぬまま崩じた。
年表(11件)
- 高祖
- 十二年(BCE195年)高祖が崩じ、五月丙寅、皇帝に即位する
- 元年(BCE194年)趙の隠王如意(戚夫人の子)が薨じる
- 二年(BCE193年)相国蕭何が薨じる
- 三年(BCE192年)長安から男女十四万六千人を徴発し長安城を築かせる
- 四年(BCE191年)張氏(張敖の娘)を皇后に立てる
- 四年(BCE191年)冠礼を行い天下に大赦し、挾書律を廃止する
- 五年(BCE190年)相国曹参が薨じる
- 五年(BCE190年)長安城が完成する
- 六年(BCE189年)斉王肥が薨じる
- 六年(BCE189年)舞陽侯樊噲が薨じる
- 七年(BCE188年)未央宮で崩じ、安陵に葬られる
出自と即位
- 孝惠皇帝は諱を盈、字を滿という。高祖の太子で、母は呂皇后。五歳のとき、高祖が漢王となって二年目に太子に立てられた。
- 高祖十二年(BCE195年)四月、高祖が崩じ、五月丙寅、太子が皇帝に即位した。皇后を皇太后と尊び、民に爵一級を賜った。
- 即位に伴い、中郎・郎中・外郎・宦官・謁者・執楯・執㦸の武士・騶などの近侍・宮官に、勤続年数に応じて爵位を加える定めを設けた。太子時代からの御驂乘には爵五大夫を賜り、舎人には勤続五年で二級を与えた。
- 喪事に携わった者には俸禄の等級に応じて銭二万から五千までを賜った。陵墓の土工事に従事した者にも、将軍は金四十、二千石は二十金、六百石以上は六金、五百石以下佐史までは二金という差等をつけた。あわせて田租を十五分の一に減じた。
- 爵五大夫・吏六百石以上、および帝に仕えて名を知られた者は、罪を犯して本来なら盗械(かせ)を科されるべき場合も寛容に扱うこととした。上造以上の爵位の者や王侯の内外の子孫は、罪により肉刑・城旦舂に当たる場合も耐罪(髠刑)にとどめ、鬼薪・白粲に減軽した。民のうち七十歳以上および十歳未満の者は、刑に当たる罪があっても肉刑を加えず完(髠刑にとどめる)とした。
- 六百石以上の吏の父母妻子および同居の家族、かつて将軍・都尉の印や二千石の官印を帯びたことのある者の家には、軍賦のほかは徴発しないこととした。郡および諸侯王国には高廟を立てさせた。
元年(BCE194年)
- 冬十二月、趙の隠王 如意(高祖の子、戚夫人の子)が薨じた。
- 民は罪があっても爵三十級を買えば死罪を免れられるようにした。民に爵戸一級を賜った。
- 春正月、長安に城壁を築き始めた。
二年(BCE193年)
- 冬十月、斉の悼惠王が来朝し、城陽郡を献じて魯元公主の邑に加え、公主を太后と尊んだ。この措置の当否については後世に議論がある。
- 春正月癸酉、蘭陵の民家の井戸に二頭の龍が現れたが、乙亥の夕には見えなくなった。隴西で地震があり、夏には旱魃となった。郃陽侯 仲(高帝の兄で、呉王濞の父)が薨じた。
- 秋七月辛未、相国 蕭何が薨じた。
三年(BCE192年)
- 春、長安から六百里以内の男女十四万六千人を徴発して長安城を築かせ、三十日で終えた。宗室の女を公主として匈奴単于に嫁がせた。
- 夏五月、閩越の君 搖を東海王に立てた。
- 六月、諸侯王・列侯の徒隷二万人を徴発して長安城を築かせた。
- 秋七月、都廐(宮中の厩)が火災に遭った。南越王 趙佗が臣と称して貢を奉じた。
四年(BCE191年)
- 冬十月壬寅、張氏(張敖の娘)を皇后に立てた。
- 春正月、孝悌に篤く農事に励む民を挙げてその身の課役を免除する制度を設けた。
- 三月甲子、皇帝が冠礼を行い、天下に大赦し、吏民を煩わせる法令を省き、挾書律(書物の私蔵を禁じる法)を廃止した。
- 長楽宮の鴻台が火災に遭い、宜陽では血の雨が降った。秋七月乙亥、未央宮の凌室(氷を蔵する室)が火災に遭い、丙子には織室も火災に遭った。
五年(BCE190年)
- 冬十月、雷が鳴り、桃・李が花を咲かせ、棗が実った。
- 春正月、ふたたび長安から六百里以内の男女十四万五千人を徴発して長安城を築かせ、三十日で終えた。夏は大旱となった。
- 秋八月己丑、相国 曹参が薨じた。九月、長安城が完成し、民に爵戸一級を賜った。
六年(BCE189年)
- 冬十月辛丑、斉王 肥が薨じた。
- 民が爵を買うことを許し、女子で十五歳以上三十歳までに嫁がぬ者には五算(通常の五倍の人頭税)を課した。
- 夏六月、舞陽侯 樊噲が薨じた。長安の西市を興し、敖倉を修築した。
七年(BCE188年)
- 冬十月、車騎・材官を発して滎陽に赴かせ、太尉 灌嬰がこれを率いた。
- 春正月辛丑朔、日食があった。夏五月丁卯、日食があり、皆既に至った。
- 秋八月戊寅、帝が未央宮で崩じた。九月辛丑、安陵に葬られた。
史論
- 賛にいう。孝惠帝は内には親族を厚く遇し、外には宰相を礼遇して優寵し、斉の悼恵王・趙の隠王への恩敬は篤かった。叔孫通の諌めを聞けば懼れ、曹参の答えを聞けば心から悦ぶという、寛仁の主であったといえる。しかし呂太后の専横に遭い、趙王如意を殺され戚夫人を惨たらしく扱われたことに心を痛め、政務を聴かぬまま崩じて、その至徳を損なうこととなった。悲しいことである。