漢書卷一上 高帝紀第一上

沛の人、劉邦(字は季、?–前195年頃)。泗水の亭長から身を起こし、秦末の動乱に乗じて沛公に推され挙兵。項羽と共に秦を滅ぼした後、項羽により漢王に封じられ巴蜀・漢中を領した。楚漢の抗争を経て項羽と天下を東西に分ける講和に至る。前漢の建国者。

年表(16件)

出自と生い立ち

  • 高祖、諱は邦、字は季。沛の豊邑中陽里の人。姓は劉氏。
  • 母媼(本姓は伝わらず、後世の讖記に基づく付会説は史書として採らない)は、かつて大澤のほとりで神と交わる夢を見た。時に雷鳴が轟き空は暗く、父の太公が見に行くと蛟龍が母の上に現れたといい、まもなく高祖を生んだと伝わる。
  • 高祖は鼻筋が高く竜顔、美しい髯を蓄え、左股に七十二の黒子があったとされる。
  • 度量が大きく寛仁で人を愛し、家業に励まず、壮年になって試験を経て泗水の亭長となった。
  • 酒と女を好み、王媼・武負の酒屋でよく飲んだ。酔って寝ている間に不思議な兆しが見えたといい、高祖が飲みに来ると店の売上が数倍になったため、年末には二軒とも借金の証文を破り棄てて帳消しにした。
  • 咸陽への労役に赴いた際、始皇帝の行幸を見て「大丈夫たるものこう有りたいものだ」と嘆息した。
  • 単父の呂公が沛令と親しく、仇を避けて沛に寓居していた。沛の官吏らが祝賀に集まった宴で、高祖は献金一万銭と偽って書付を出したが実は無一文であった。呂公は人相を見込んでこれを重んじ、上座に招いて娘(のちの呂后)を娶らせた。呂后は孝恵帝と魯元公主を生んだ。
  • 呂后が二子と田で過ごしていたとき、通りがかりの老人が人相を見て「夫人も子らもみな貴相である」と告げた。後日高祖が同じ老人に追いつき同様の予言を受けたという。
  • 亭長として麗山への徒役の護送を命じられた際、逃亡者が相次いだため、豊西の沢中で残る徒役を解き放ち、従いたい壮士十余人と共に夜道を進んだ。前方に大蛇がいると聞くと自ら剣を抜いて斬った。後に、白帝の子(蛇)を赤帝の子(高祖)が斬ったとの伝説が付会された。
  • 始皇帝が「東南に天子の気あり」と言って東遊しこれを鎮めようとしたとされ、高祖は芒・碭山中に隠れた。呂后が雲気を頼りに彼を探し当てたといい、これにより沛の子弟の中で付き従う者が増えた。

秦二世元年(前209年)

  • 秋七月、陳渉が蘄で挙兵し、陳に至って自ら楚王を称した。
  • 八月、武臣が趙王を自称。各郡県で秦の長吏を殺して呼応する動きが広がった。
  • 九月、沛令が沛でこれに呼応しようとしたが、掾の曹参・主吏の蕭何が「秦の吏である身で反旗を翻すには沛の子弟の支持が要る」と進言し、亡命者数百人を呼び戻すため樊噲に高祖を迎えに行かせた。
  • 高祖の兵が数百人に膨らむと、沛令は動揺して城を閉ざし蕭何・曹参を誅そうとした。二人は城壁を越えて高祖の下に逃れ、高祖は帛書を城内へ射込んで父老に決起を呼びかけた。父老らは沛令を殺して高祖を迎え入れ、これに沛令になるよう求めた。
  • 高祖は「天下は乱れ、将となる者を誤れば一敗地に塗れる」と辞退したが、蕭何・曹参ら文吏は失敗を恐れて固辞し、占いでも高祖が最吉とされたため、衆議により高祖は「沛公」に立てられた。
  • 沛の役所の庭で黄帝・蚩尤を祀り、鼓に血を塗って旗幟をすべて赤に統一した(白帝の子を斬った赤帝の子との伝説にちなむ)。
  • 蕭何・曹参・樊噲らが沛の子弟三千人を集めた。同月、項梁・項羽の叔父甥が呉で挙兵、田儋・田栄の従兄弟が斉で挙兵し田儋が斉王を自称、韓広が燕王、魏咎が魏王を自称した。
  • 陳渉配下の周章が関中に西進して戯まで至ったが、秦将章邯に撃破された。

秦二年(前208年)

  • 十月、沛公は胡陵・方与を攻め、豊に戻ってこれを守った。秦の泗川監平の包囲軍を二日で破り、雍歯に豊を守らせた。
  • 十一月、薛に進撃し、泗川守壮を戚で破り、沛公の左司馬「得」がこれを斬った。亢父に還り方与に至った。趙王武臣が部将に殺された。
  • 十二月、楚王陳渉が御者の荘賈に殺された。魏人周市の勧誘で雍歯が魏に寝返り豊を献じて背いた。沛公は豊を攻めたが落とせず引き返した。沛の民は雍歯と豊の子弟の裏切りを怨んだ。
  • 正月、張耳らが趙歇を趙王に立てた。東陽の寧君・秦嘉が景駒を楚王に立てた。沛公は留に赴く途中で張良を得て、共に景駒の下へ参じ、兵を借りて豊を攻めようとした。
  • 章邯配下の司馬夷が楚地を北方から平定しつつ相を屠り碭東に至った。沛公らは西進し蕭の西で迎撃したが不利で、留に戻って兵を集め碭を三日で攻略した(碭兵六千を得て合計九千となる)。
  • 三月、下邑を攻略。四月、項梁が景駒・秦嘉を撃破。沛公が薛で項梁に謁見し、兵五千と五大夫の将十人を得た。
  • 豊を再攻略し雍歯を魏に敗走させた。五月、項羽が襄城を落とし、項梁は諸別将を召集した。六月、沛公は薛に赴き項梁と共に楚懐王の孫・心を懐王に擁立した(民望に応えるため楚王の後裔を立てたもの)。章邯が魏王咎・斉王田儋を臨済で撃破し殺した。
  • 七月、大雨が続いた。沛公は亢父を攻め、項梁と共に東阿で田栄を救援し章邯を大破した。項羽は敗走する秦軍を追った。城陽を屠り、濮陽東で再度章邯を破ったが、章邯は濮陽で環水を巡らせて立て籠った。八月、田栄が田儋の子・田市を斉王に立てた。沛公・項羽は西進して雍丘で秦軍を大破し、三川守の李由(李斯の子)を斬った。外黄を攻めたが落とせなかった。項梁は驕り宋義の諫めを聞かず、秦は章邯の軍を増強した。
  • 九月、章邯が枚を銜ませて夜襲し定陶で項梁を大破・殺害した。沛公・項羽は陳留を攻めていたが項梁の死を知り恐れて東へ転進した。懐王は盱台から彭城へ遷都。呂臣・項羽・沛公はそれぞれ彭城東・彭城西・碭に布陣した。魏咎の弟・魏豹が魏王を自称した。
  • 後九月(閏月)、懐王は呂臣・項羽の軍を自ら統率し、沛公を碭郡長・武安侯として碭郡兵を将いさせ、項羽を魯公・長安侯、呂臣を司徒、その父呂青を令尹とした。
  • 章邯は項梁撃破後、河北に渡って趙王歇を大破し鉅鹿城に籠らせ、秦将王離がこれを包囲した。趙はしきりに救援を求め、懐王は宋義を上将軍、項羽を次将、范増を末将として救援に向かわせた。かねて懐王と諸将は「先に関中を平定した者を王とする」と約していた。秦の勢いが強いため諸将は関中入りを望まなかったが、項羽だけは項梁の仇討ちのため西進を望んだ。しかし懐王の老将たちは、項羽が性急・残忍で嘗て襄城を攻めて皆殺しにした前歴を理由に反対し、寛大で長者の風のある沛公を西進させることとした。
  • 沛公は陳王・項梁の敗残兵を集めながら碭を経て陽城・杠里に至り、秦軍の陣壁を破った。

秦三年(前207年)

  • 十月、斉将田都が田栄に背いて項羽の趙救援を助けた。沛公は成武で東郡尉を撃破した。
  • 十一月、項羽が宋義を殺してその軍を奪い、自ら上将軍となった。黥布ら諸将がこれに属した。十二月、沛公は栗で剛武侯に遭い、その兵四千余を奪って、魏将の皇欣・武満の軍と合流し秦軍を破った。故斉王建の孫・田安が済北の兵を率いて項羽の趙救援に加わった。
  • 項羽は鉅鹿で秦軍を大破し、王離を捕虜として章邯を敗走させた。二月、沛公は碭から北上して昌邑を攻め、彭越と合流したが落とせず、西進して高陽に至った。里監門の酈食其が謁見を求めて説き、沛公は無礼を詫びて迎え入れ広野君とした。その弟・酈商は陳留の兵を将いた。三月、開封を攻めたが落とせず、白馬で秦将楊熊と戦い、曲遇東で大破した。楊熊は滎陽に走ったが二世に斬られた。
  • 四月、潁川を屠り、張良の縁で韓地を略した。趙の別将司馬卬が渡河を図ったため、沛公は北上して平陰を攻め、雒陽東で戦うも不利、轘轅を経て陽城に至り軍馬を得た。六月、南陽守齮を犨東で大破し、南陽を略したが宛城に籠城された。張良の諫めで夜襲して包囲すると、南陽守は自剄を図ったが舎人の陳恢の説得で降伏し、殷侯に封じられ陳恢も千戸を与えられた。
  • 七月、丹水に至り高武侯の鰓・襄侯の王陵らが降った。胡陽を攻め、番君の別将梅鋗と合流して析・酈を攻略、掠奪を禁じて秦の民心を得た。同月、章邯が全軍を挙げて項羽に降り雍王に封じられた。瑕丘申陽は河南に下った。
  • 八月、沛公は武関を攻め秦に入った。秦相趙高は二世を殺し、沛公との関中分割を持ちかけたが拒まれた。九月、趙高は子嬰を秦王に立てたが子嬰は趙高を誅殺した。子嬰は嶢関に将を派して防いだが、張良の献策(疑兵の計と買収策)により沛公は嶢関を破り、藍田南北で秦軍を大破した。

漢元年(前206年)

  • 冬十月、五星が東井に集まったとされる(この記事の真偽は後代の議論の的となった)。沛公は覇上に至り、秦王子嬰は素車白馬で首に組を掛け、皇帝の璽符節を封じて枳道の路傍で降伏した。諸将の中に子嬰の誅殺を主張する者もいたが、沛公は懐王の命と降伏者を殺すべきでないとの理由で処刑せず官吏に引き渡した。咸陽宮に留まろうとしたが樊噲・張良の諫めで秦の財宝府庫を封印して覇上に軍を還した。蕭何は秦丞相府の図籍文書を接収した。
  • 十一月、沛公は父老・豪傑を集め、秦の苛法を廃し「約法三章」(殺人者は死、傷害・盗みはそれぞれ相応の罪)を布告し、他の秦法をすべて除いた。秦民は大いに喜び牛羊酒食を献じたが辞退した。ある者が函谷関を守り諸侯の関中入りを阻むよう進言し、沛公はこれに従い関中兵を徴集した。
  • 十二月、項羽が諸侯兵を率いて西進、函谷関の閉鎖に激怒し黥布らに関を破らせ戯下に至った。沛公の左司馬曹無傷が項羽に「沛公は関中に王たらんとし、子嬰を宰相として珍宝を独占している」と讒言し、亜父范増もこれに乗じて攻撃を促した。項伯(項羽の季父、張良と旧知)が夜に張良へ危急を告げたが、張良は沛公に密告した。沛公は項伯と婚姻の約を結んで弁明させ、項伯は沛公に翌朝自ら謝罪に赴くよう勧めた。
  • 沛公は百余騎で鴻門に赴き項羽に弁明した。項羽は曹無傷の讒言と明かした。酒宴の席で范増は幾度も項羽に暗殺を促したが応じず、項荘に剣舞を口実に沛公を討たせようとしたが、項伯が身を挺してこれを庇った。樊噲が剣を帯びて乱入し項羽を叱責した。沛公は厠に立つと見せて脱出し、樊噲・靳彊・滕公・紀成と徒歩で間道を抜けて自陣に戻り、張良に璧・玉斗を献上させて謝罪させた。范増は玉斗を叩き割り「我らは沛公の虜となろう」と嘆いた。
  • 数日後、項羽は咸陽に入り秦王子嬰を殺し秦宮室を焼き払った。秦の民は大いに失望した。項羽は懐王に指示を仰いだが「先の約の通り(沛公を関中王に)」と返答され、これを怨んだ。項羽は「懐王は我が一族が擁立したに過ぎず、天下平定の功は我と諸将にある」として実質的に懐王の命に従わなかった。
  • 春正月、項羽は懐王を名目上「義帝」に奉じつつ実権を渡さず、自ら西楚覇王を称し梁楚九郡を領して彭城に都した。約に背いて沛公を漢王とし、巴蜀・漢中四十一県を与えて南鄭に都させた。関中は三分し、秦の降将三人を封じた。章邯(雍王、廃丘に都す)、司馬欣(塞王、櫟陽に都す)、董翳(翟王、高奴に都す)。ほか瑕丘申陽(河南王、洛陽)、司馬卬(殷王、朝歌)、英布(九江王、六)、共敖(臨江王、江陵)、呉芮(衡山王、邾)、田安(済北王)、魏豹(西魏王、平陽)、韓広(遼東王)、臧荼(燕王、薊)、田市(膠東王)、田都(斉王、臨葘)、趙歇(代王)、張耳(常山王)と、合わせて十八人が分封された。漢王は約束を破った項羽を攻めようとしたが、蕭何の諫めで思いとどまった。
  • 夏四月、諸侯は各々の国に赴いた。項羽は漢王に卒三万と楚・諸侯からの慕従者数万をつけ、杜南から蝕中を経て漢中入りさせた。張良は韓王への帰参を願い出て別れる際、漢王に桟道を焼き払うことを勧め、東進の意志なきことを項羽に示させた。漢中に着いた漢王配下の将士は望郷の歌をうたい脱走者が相次いだ。治粟都尉の韓信も出奔しかけたが、蕭何が追って連れ戻し漢王に推挙した。漢王は斎戒し壇場を設けて韓信を大将軍に任命し、韓信は項羽の非義と三秦平定の容易さを説く献策を行い、漢王はこれを容れた。
  • 五月、漢王は故道から出撃して雍を襲った。雍王章邯は陳倉・好畤で敗れ廃丘に籠った。漢は雍地を平定し咸陽方面に進出、廃丘を包囲した。田栄は項羽が斉王市を膠東に移し田都を斉王としたことに怒り田都を撃破し、六月に田市を殺して自ら斉王を称した。彭越は鉅野で独立勢力を持ち、田栄と結んで梁地で反乱を起こし済北王安を撃殺した。田栄は斉・済北・膠東の三斉の地を併合した。燕王韓広は遼東への移封を拒み、秋八月、燕将臧荼が韓広を殺してその地を併合した。塞王欣・翟王翳が漢に降った。
  • かつて項梁が擁立した韓王成は、張良が漢王に従ったため功なしとして項羽に彭城へ連行され殺された。項羽は故呉令の鄭昌を韓王に立てて漢に対抗させたが、蕭公角に彭越を撃たせて敗れた。張良は韓地を平定しつつ項羽に「漢は関中を得れば東進しない」との書を送って油断させた。項羽はこれにより西方を顧みず北方の斉討伐に専念した。
  • 九月、漢王は薛欧・王吸に武関から出させ、南陽の王陵の兵と合わせて沛にいる太公・呂后を迎えに向かわせたが、項羽が兵を発して陽夏で阻み失敗した。

漢二年(前205年)

  • 冬十月、項羽が九江王黥布に義帝を郴で殺させた。陳余も項羽が自分を王としなかったことを怨み、田栄の援兵を得て常山王張耳を撃破した。張耳は漢に降り厚遇され、陳余は趙歇を代王から趙王に戻し自ら代王となった。張良は韓から間道で漢王のもとへ帰参した。
  • 漢王は陝に至り関外の父老を慰撫した。河南王申陽が降り河南郡が設置された。韓の太尉信(のちの韓王信、准陰侯韓信とは別人)に韓を攻めさせ、韓王鄭昌が降った。十一月、太尉信を韓王に立てた。漢王は櫟陽に還都し、諸将に略地させ隴西を平定、降伏者には一郡単位で万戸を封じる方針を示した。河上の要塞を修築し、秦の苑囿を民に開放して耕作させた。
  • 春正月、項羽は田栄を城陽で撃ち、田栄は平原で敗死した。斉は一旦楚に降ったが項羽が城郭を焼いたため再び反抗した。漢は北地を攻略し雍王の弟章平を捕えた。二月癸未、秦の社稷を廃し漢の社稷を立て、民に恩徳と爵位を授けた。蜀漢の民の租税を二年免除し、関中の従軍者は一年の徭役を免除した。五十歳以上で徳行あり衆を率いうる者を郷三老・県三老に任じ、県令・丞・尉と共に教化に当たらせ徭役を免じた。十月に酒肉を賜う制度も定めた。
  • 三月、漢王は臨晋から渡河し、魏王豹が降り兵を率いて従軍した。殷王卬を捕虜として脩武に至った。陳平が楚から漢に降り、参乗として重用された。平陰津から南下し洛陽新城で三老董公が「義帝弑逆の項羽を討つ大義名分」を説き、漢王はこれに従って義帝のために喪を発し三日間哀哭し、諸侯に檄を発して楚討伐を呼びかけた。
  • 夏四月、田栄の弟・田横が数万を集め田栄の子・広を斉王に立てた。項羽は斉討伐に専念していたため、漢王は常山・河南・韓・魏・殷の五諸侯の兵を率いて東進し、外黄で彭越が三万の兵を率いて帰順し魏の相国・梁地平定を命ぜられた。漢王は彭城に入城して財宝・美女を接収し祝宴を開いたが、項羽が精兵三万で急襲、彭城の東・霊璧の睢水付近で漢軍を大破し、多くの死傷者を出して睢水の流れが止まったという。漢王は数十騎で脱出し、沛で家族を探すが会えず、道で孝恵・魯元と遭遇して同乗、追撃を逃れるため二子を車から突き落とす場面もあった(滕公が拾い上げて事なきを得た)。審食其が太公・呂后を連れて逃れる途中で楚軍に捕らえられ、以後項羽軍中に人質として置かれた。諸侯は漢の敗北を見て離反し、塞王欣・翟王翳は楚に降り、殷王卬は死んだ。
  • 呂后の兄・周呂侯が下邑で兵を擁しており、漢王はここで兵を集め碭に布陣した。梁地を経て虞に至り、謁者随何を九江王黥布のもとへ派遣して楚からの離反を説かせ、黥布はこれに応じた。
  • 五月、漢王は滎陽に駐屯した。蕭何が関中の未登録の老弱まで動員して援軍を送った。韓信も兵を集めて合流し、京・索の間で楚軍を破った。甬道を築いて敖倉の米を確保した。魏王豹は帰省を理由に離反し河津を絶った。
  • 六月、漢王は櫟陽に還り、壬午の日に太子(のちの恵帝)を立てて大赦し、関中在住の諸侯の子弟を集めて櫟陽の守衛とした。廃丘に水攻めを行い章邯は自殺、雍地八十余県を平定して河上・渭南・中地・隴西・上郡の五郡を新設した。祭祀制度を整備し、辺塞の防備を強化した。関中は大飢饉となり米一斛が万銭に高騰、人が人を食う惨状となり、民を蜀漢へ食を求めて移した。
  • 秋八月、漢王は酈食其に魏王豹の説得を命じたが失敗し、韓信を左丞相として曹参・灌嬰と共に魏を攻めさせた。九月、魏を平定し魏豹を捕虜として滎陽に送り、河東・太原・上党の三郡を設置した。韓信は兵三万を得て北の燕・趙を平定し、東の斉を撃ち、楚の糧道を断つ策を献じ、漢王はこれを許した。

漢三年(前204年)

  • 冬十月、韓信・張耳が井陘を下って趙を攻め、陳余を斬り趙王歇を捕虜として常山・代の二郡を設置した。甲戌の日・十一月癸卯の日にそれぞれ晦日の日食が記録されている。
  • 随何の説得を受けた黥布が挙兵したが、楚の項声・龍且が撃退にあたり黥布は敗れた。十二月、黥布は随何と間道で漢に帰順し、漢王は兵を分けて共に成皋へ向かわせた。項羽は漢の甬道をたびたび奪い、漢軍は食糧不足に陥った。
  • 酈食其は六国の後裔を王に立てて楚の力を分散させる策を漢王に献じ、漢王は印を刻んで酈食其を遣わそうとしたが、張良が「八つの不可」を挙げて諫め、漢王は食事を止めて印の鋳造を廃棄させた。陳平の献策で黄金四万斤を用いて楚の君臣を離間する策を実行した。
  • 夏四月、項羽が滎陽を包囲した。漢王は講和を求め滎陽以西の割譲を提案したが、亜父范増は攻撃続行を主張した。陳平の離間策が功を奏し項羽は范増を疑い、范増は怒って辞去し道中で発病死した。
  • 五月、将軍紀信が身代わりとなることを申し出て、女二千人を東門から出して楚軍の注意を引く陽動の間に、紀信が漢王の車に乗り黄屋左纛を掲げて偽って降伏を宣言し、その隙に漢王は数十騎で西門から脱出した。項羽は紀信を見破って焼き殺した。周苛・魏豹・樅公が滎陽を守っていたが、周苛・樅公は魏豹がかつて一度漢に背いた前歴を理由にこれを殺害した。漢王は成皋を経て関中に入り軍を立て直した。
  • 轅生の献策により、漢王は宛・葉方面に出て項羽の軍を南に誘い、韓信らに河北・趙地を固めさせて燕・斉と連携する持久策を採った。漢王は黥布と合流し宛に布陣した。項羽は南下したが漢は籠城戦を取った。彭越が雎水を渡り項声・薛公を下邳で破り薛公を殺した。項羽は終公に成皋を守らせ自ら東の彭越討伐に向かったが、漢王は北上して終公を破り成皋を回復した。
  • 六月、項羽は彭越を撃破した後、漢が成皋を回復したと聞き西進して滎陽城を落とし周苛を捕えた。周苛は項羽の懐柔を拒み罵倒したため、項羽は怒って周苛を煮殺し、樅公も殺し韓王信を捕虜として成皋を包囲した。漢王は滕公と共に成皋の玉門から脱出して北に渡河し、小脩武に宿営した。使者を騙って張耳・韓信の陣営に入りその軍を奪い、張耳に趙地の兵を集めさせた。
  • 秋七月、彗星(孛星)が大角に現れた。漢王は韓信の軍を得て勢いを盛り返した。八月、河南に臨み小脩武に軍を進めて再戦を図ったが、郎中鄭忠の諫めで持久策に転じ、盧綰・劉賈に兵二万余を与えて白馬津から渡河させ、彭越と合流して楚の兵站を焼き払い、燕(地名)郭西で楚軍を破り、睢陽・外黄など十七城を落とした。
  • 九月、項羽は成皋を守る大司馬曹咎に持久を厳命し、漢の挑発に決して応じぬよう戒めて自らは東の彭越討伐に向かった。漢王は酈食其を遣わして斉王田広を説き、斉は守兵を解いて漢と講和する動きを見せた。

漢四年(前203年)

  • 冬十月、韓信は蒯通の計を用いて斉を急襲し、酈食其は斉王広に煮殺された。項羽は龍且を斉救援に派遣した。一方、成皋では漢の度重なる挑発に耐えかねた大司馬曹咎がついに氾水を渡って応戦し、半渡を突かれて大敗、曹咎・長史欣は氾水のほとりで自剄した。漢は楚の金玉財貨をことごとく獲得した。漢王は渡河して成皋を回復し広武に布陣、敖倉の食糧を確保した。項羽は梁地十余城を落としたが、海春侯(曹咎)敗死の報を聞いて軍を返した。漢軍は滎陽東で鍾離眜を包囲していたが項羽の帰還を知り険阻な地に退いた。項羽も広武に布陣し、両軍は対峙して疲弊した。
  • 漢王・項羽は広武の間隙を挟んで対峙し、項羽が一騎討ちを望んだが、漢王は懐王との「先入関中者を王とする」約束違反、卿子冠軍宋義の矯殺、関中への乱入・略奪、秦宮焼却・始皇帝陵の盗掘、子嬰殺害、新安での秦降卒二十万の生き埋め、諸将の善地への封建と旧主追放、義帝の追放と暗殺など、項羽の十の大罪を数え上げて非難した。項羽は怒って弩で漢王を射て胸を負傷させたが、漢王は動揺を見せぬよう足に当たったふりをして兵を安んじ、傷を押して各陣を巡視した後、成皋に急ぎ引き返した。
  • 十一月、韓信・灌嬰が楚将龍且を斉で撃破・斬殺し、城陽で斉王広を捕虜とした。斉相田横は自立して斉王を称し彭越の下へ逃れた。漢は張耳を趙王に立てた。漢王の傷が癒え、関中に入り父老を慰問し、塞王欣の首を旧都の櫟陽市に晒した。四日滞在の後、広武の軍に戻った。関中からの増援が続き、彭越・田横は梁地で楚軍の糧道を脅かし続けた。
  • 韓信は斉平定後、「斉は楚と境を接し不安定なので仮王(代理の王)に立ててほしい」と要請した。漢王は怒ったが張良の進言で受け入れ、春二月、張良に印を持たせて韓信を正式に斉王に立てた。秋七月、黥布を淮南王に立てた。八月、算賦(人頭税)を初めて課した。北方の貉・燕の人々が精鋭騎兵(梟騎)を漢に送って助勢した。漢王は戦死した兵士のために棺と衣衾を支給し遺骸を故郷へ送る制度を定め、これにより人心が漢に帰服したという。
  • 項羽は兵力の減少と食糧不足に苦しみ、韓信の進撃を受けてさらに窮迫した。漢は陸賈・侯公を派遣して太公の返還を交渉し、ついに項羽は漢と天下を東西に分ける講和に応じ、鴻溝を境として西を漢、東を楚とする約定を結んだ。九月、太公・呂后が漢に帰り、漢の全軍が万歳を唱えた。侯公は講和の功により平国君に封ぜられた。項羽は東へ引き上げ、漢王も西に帰ろうとしたが、張良・陳平が「漢は天下の大半を有し諸侯もこれに帰し、楚は兵疲れ食尽きている。今この好機を逃せば『虎を養いて自ら患いを遺す』ことになる」と諫め、漢王はこれに従った。