前漢演義第九十五回 謀略が漏れ許皇后が毒殺され、席次を争い怒って宦官を叱責する (泄機謀鴆死許後 爭座位怒斥中官)
中山王と定陶王の入朝
- 中山王劉興(馮昭儀の子)と定陶王劉欣(劉康の嗣子、祖母傅昭儀に養育)が同時に入朝。
- 成帝は両者の受け答えを比べ、劉欣の聡明さに対し劉興の凡庸さに落胆した。傅昭儀は財宝を趙氏姉妹や大司馬王根に贈って根回しし、劉欣を帝嗣に推す下地を作った。
定陶王の立太子
- 趙氏姉妹が子を得られぬまま、王根の上奏もあって成帝は定陶王欣を皇太子に決定(改元・綏和)。中山王には食邑を加増し不満を宥めた。
- 御史大夫孔光は中山王擁立を主張して廷尉に左遷された。
- 太子の実の祖母・傅昭儀と母・丁姫は当初東宮への出入りを許されなかったが、太后の計らいで傅昭儀のみ面会を許された。
淳于長の悪事露見
- 太后の甥・淳于長は立后工作の功で定陵侯となり、権勢を笠に着て放埓な生活を送った。廃后許氏の姉・許孊を妾とし、許氏の復位運動の仲介をしながら実際は愚弄していた。
- 王莽は淳于長が大司馬の後任を狙っていることを知り、その不正・不敬を王根・太后に密告。淳于長は左遷の途上、従弟王融への賄賂が発覚して連座、獄死。関与した廃后許氏も自尽を命じられた。
王莽の大司馬就任と自己演出
- 淳于長を告発した功で王莽が大司馬となる。質素倹約を演じ、母の見舞いに来た名士夫人らを驚かせるなど、名声を高める工作を重ねた。
翟方進の死
- 天変を理由に丞相翟方進が責めを負わされ、酒と牛を賜られて自裁を命じられた(漢代の慣例による暗黙の賜死)。成帝は病死と偽装して弔問した。
- 後任の丞相には孔光が起用されることになった。
成帝の急死
- 成帝は少嬪館で趙合徳と過ごした翌朝、突然倒れて急死した(45歳、在位26年)。趙合徳は動揺しつつも動じた様子を見せた。
- 太子劉欣が即位(哀帝)。王莽・孔光らに成帝の死因調査が命じられると、趙合徳は追及を恐れて自ら毒をあおって自殺した。
哀帝即位後の外戚争い
- 哀帝は王政君を太皇太后、趙飛燕を皇太后とした。太皇太后は傅昭儀・丁姫を厚遇し、宮中への出入りを許した。
- 高昌侯董宏が秦の故事を引いて傅昭儀の尊号を進言したが、王莽・師丹の弾劾で退けられた。それでも傅昭儀の圧力で結局「定陶共皇太后」の号が与えられ、丁姫にも尊号が与えられた。傅氏・丁氏一族も次々と列侯に取り立てられた。
- 太皇太后主催の宴席で、傅太后の座席が正座の隣に設けられたのを見た王莽が「藩妾が至尊と並ぶべきでない」と一喝し座を移させた。これに怒った傅太后は欠席し、後にこの一件をきっかけに哀帝へ王莽の罷免を迫り、王莽は辞職に追い込まれた(それでも清廉の評は保った)。
- 傅喜は徳望あるも傅太后の意に沿わず退けられ、師丹が大司馬となった。
- 司隷校尉解光が二人の権戚を弾劾する上奏文が届いたところで回が終わる。
評語
淳于長は財で身を滅ぼし、許后も財ゆえに命を落とし、成帝は色に溺れて世継ぎを絶やし自らも命を落とした。財と色は古今の大戒である。傅昭儀は色によって孫を帝位に就けながら、なお満足せず尊号や席次を求め続けた。王莽の座位への干渉も一見礼を正すようだが、その実は己が家の利害のためであった。外戚が権を争い王室を顧みぬのでは、劉氏の前途は危うい。