前漢演義第九十六回 師丹は太后の意に逆らい左遷され、史立は旧妃を害し奸計を働く (忤重闈師丹遭貶 害故妃史立售奸)

王根・王況の弾劾と地震

  • 司隸校尉の解光は、王莽が失脚し丁氏・傅氏が権勢を握ったのに便乗し、曲陽侯王根と成都侯王況を弾劾した。奢侈な邸宅、掖庭の女楽を私的に娶ったことなどを不敬・不道の罪として挙げた。
  • 哀帝は王氏の勢力を抑えたい思惑もあり、王根を封国へ帰らせ、王況を庶人に落とした。
  • 直後の九月、京師から北方にかけ大地震が起き、多数の死者と被害が出た。哀帝は災異を憂い群臣に意見を求め、待詔李尋は上奏し、天変は君主の徳の衰えと外戚・女謁の専横に由来すると説き、賢士登用と外戚抑制を進言した。

哀帝親政の理想と挫折

  • 哀帝は即位当初、倹約と弊政の除去を志し、楽府官の廃止や任子令の停止など改革に着手し、天下も期待した。
  • しかし傅太后が内から政治に干渉し尊号を求めるなどしたため、哀帝は次第に主体性を失い怠惰になった。
  • 朝臣は傅氏派と反傅氏派に分裂。大司空何武は傅太后の意を受けた讒言で免職となり、代わって師丹が大司空となった。師丹は哀帝の急激な改革や丁傅への過剰な封賞を諫めたが、哀帝は傅太后らの圧力で思うように動けなかった。
  • 傅太后の従姪傅遷を罷免しようとしても、傅太后の横やりで結局留任させるなど、哀帝の権威は形骸化していた。

趙昭儀事件の再燃と趙氏の処分

  • かつて成帝の皇子を害した趙合德の悪事が、獄丞籍武の証言などから司隸校尉解光に伝わり弾劾された。趙昭儀(合德)はすでに自尽していたため実罰は及ばなかったが、趙欽・趙訢は爵位を奪われ庶人となり遼西へ流された。趙太后(飛燕)は哀帝の恩義により咎めを免れた。
  • 建平と改元。傅喜が大司馬に任じられた。冷褒・段猶らは共皇太后・共皇后の称号を皇后待遇にすべしと上奏したが、大司空師丹は「共皇の号は既に定まっており、天子は本宗を尊ぶべきで京師に廟を立てるべきでない」と正論で反対した。

師丹の失脚と朱博の台頭

  • 師丹の議論は丞相孔光や大司馬傅喜にも支持されたが、傅太后一派はこれを恨み、奏草の漏洩を口実に師丹を弾劾・免官し爵封を削った。給事中申咸や博士炔欽が師丹を弁護したが逆に降格され、のちに世論を受けて師丹は関内侯にだけ復した。
  • 京兆尹朱博が大司空に抜擢された。朱博は元は義俠に厚い人物であったが、この頃から傅氏に接近し、私情で立身を図るようになった。

中山王馮昭儀の冤獄

  • 傅太后はかつて成帝の熊が逃げ出した際に自ら身を挺した馮昭儀(中山王太后)への旧怨を晴らそうとした。
  • 中山王劉興の子箕子が病弱であったため、哀帝は使者張由を医師とともに中山へ派遣したが、張由は持病の狂躁から無断で帰京し、責任逃れのため馮昭儀が巫蠱で皇帝と傅太后を呪詛していると讒言した。
  • 傅太后は激怒し御史丁玄、続いて中謁者史立を派遣して取り調べさせた。史立は功名心から拷問と偽証誘導によって巫の劉吾に虚偽の自白をさせ、医師徐遂成にも偽証を作らせ、馮昭儀の妹馮習を拷問死させるなどして冤罪をでっち上げた。
  • 追及された馮昭儀は、史立が知るはずのない「当熊」の逸話を持ち出されたことから宮中に内通者がいると悟り、傅太后の陰謀と察して服毒自尽した。
  • 馮昭儀の兄馮参も無実を訴えて自刎、一族十七人が死に、王女は庶人に落とされ流された。
  • 司隸校尉孫寶が冤罪を訴えたが傅太后の怒りを買い投獄され、のちに大司馬傅喜らの取りなしでようやく復職した。張由・史立は当初恩賞を受けたが、哀帝の死後に孔光が旧悪を追及し、二人とも罷免・流罪となった。馮氏の冤罪は結局晴らされなかった。

傅喜・孔光の排斥と朱博の異変

  • 傅太后は孔光と傅喜(協力を拒んだため)をともに排斥しようとし、建平二年、傅喜を大司馬から罷免して封国へ送り、孔光も丞相を罷免して庶人に落とした。
  • 朱博は三公制を改めて御史大夫制に戻すことを進言し、自ら御史大夫となった後、まもなく丞相に昇進。趙玄を御史大夫とした。
  • 二人が策命を受ける殿上で、原因不明の鐘のような怪音が響き渡り、群臣を驚かせた。

(詩:柱石たるべき賢臣を用いず、小知恵の者が国政を握ることへの皮肉。殿上の怪音は破滅の予兆であった、との趣旨)

評語

  • 傅昭儀(傅太后)は人に取り入るのが巧みだったが、それは寵を固めるための術策であり、のちには「人を善く助ける」から「人を害する」へと変質した。
  • 師丹や傅喜のような正しい者すら排斥した傅太后の心根を批判し、馮昭儀の死は「当熊」の旧怨に発する陰湿な陥れであったとし、婦人の狭量さを趙氏姉妹に限らぬものとして論じている。
  • 朱博が才を持ちながら傅氏の走狗となり非業の死を遂げたことも、自業自得として戒めている。