前漢演義第九十四回 班伯は図を借りて諫言し、朱雲は欄干を折ってまで直言を貫く (智班伯借圖進諫 猛朱雲折檻留旌)
昭陽宮の栄華と姉妹の駆け引き
- 合徳は絢爛たる昭陽宮に住み、成帝の寵は次第に飛燕から合徳に移った。飛燕は遠条館で密かに男妾を蓄え子を得ようとしていた。
- 成帝が飛燕への不満を漏らすと、合徳は姉を庇い涙で取りなした。密通を告発する者は処罰され、飛燕の乱行は野放しにされた。
- 飛燕は宮奴・燕赤鳳を寵愛し、合徳にも紹介。両者は少嬪館・遠条館を通じて赤鳳と密会を重ねたが、成帝の寵が偏ることから姉妹は一時不和になりかけ、女官樊嫕の仲裁で収まった。
- 劉向は『列女伝』『新序』『説苑』を著し成帝を諫めたが、成帝は聞くのみで実行しなかった。
王莽の台頭
- 王太后の甥・王莽は、伯父王鳳の病床で献身的に看護するなど謙譲・孝行で評判を高め、王鳳の遺言もあって黄門郎から次第に昇進、新都侯に封じられた。質素な生活を演出し名声を集めた。
- 王商(丞相)は成帝の淫逸を憂い、太常丞谷永に諫言を促したが、成帝は激怒し谷永を投獄しかけた(王商の手引きで難を逃れる)。
班伯の諫言と張放の処遇
- 班婕妤の弟・班伯は、成帝の酒宴で紂王と妲己の図を見つめることで暗に酒色を戒め、成帝も直言と認めて感謝した。
- 太后は成帝の放蕩を戒め、寵臣張放の追放を求めた。張放はたびたび左遷・召還を繰り返し、成帝と離別のたびに涙を流す仲であったが、最終的に封国へ送られた(成帝崩御後、悲しみのあまり衰弱死したと語られる)。
丞相の交代と直臣たち
- 太皇太后崩御の際の不手際で薛宣が免官、翟方進が丞相となった。翟方進は厳格だが私怨で人を陥れる面もあった。
- 御史大夫には孔光(孔子の子孫)が就いた。慎重で口の堅い人物として描かれる。
- 南昌尉の梅福は辞職後も上書して外戚専権を諫めたが顧みられず、のちに姿を消し伝説的な人物となった。
張禹の保身と朱雲の直諫
- 天変が続く中、劉向は外戚を、谷永は後宮を、それぞれ原因と論じた。
- 大司馬の後任人事や葬地の恩賜を巡り王根と張禹が対立したが、成帝は張禹を厚遇。劉向らが王氏専権を弾劾する上奏を成帝が張禹に示すと、張禹は保身のため「天道は測り難い」として王氏を擁護し、王根の恨みを和解に転じさせた。
- 朱雲は張禹を「佞臣」と名指しして斬るよう成帝に迫り、怒った成帝に引きずり出される際に殿の欄干を折るほど抵抗した。左将軍辛慶忌の必死の諫めで朱雲は赦免され、成帝は欄干を修理させず直臣の証として残させた。
皇孫殺害
- 劉向は岷山崩落を周の幽王滅亡の予兆になぞらえ、漢の衰亡を予感した。
- 成帝は世継ぎを得られぬまま焦り、宮女曹宮・許美人にひそかに男子を産ませたが、いずれも趙合徳の嫉妬により母子ともに殺害された(「燕燕来たりて皇孫を啄む」の童謡が的中したと語られる)。
評語
班伯・朱雲のような正しい臣がいても、成帝に親しく用いられなかった。王氏は権勢に頼るのみ、張禹は師傅の地位にありながら阿諛に終始し、趙氏姉妹の驕淫と皇孫殺害が加わって、漢の衰亡は成帝の代にすでに始まっていたと言える。