前漢演義第九十二回 匈奴の事情を察し速やかに包囲を解き、妻の忠告に背いた上書が禍を招く (識番情指日解圍 違婦言上書惹禍)

黄河決壊と王延世の治水

  • 黄河の氾濫は漢代を通じて度々発生していた。元帝末年に屯氏河が塞がり、河水は氾濫を繰り返した。
  • 建昭4年、館陶・東郡の金堤が決壊し四郡三十二県が水没。御史大夫尹忠は事態を軽視して叱責され、恐懼して自殺。
  • 成帝は賑済を命じ、犍為の王延世を河堤使者に起用。竹籠に石を詰めて沈める工法で36日で堤を完成させた。成功を機に元号を「河平」と改元し、延世は光禄大夫・関内侯に昇進した。

陳湯、烏孫問題を予見する

  • 烏孫の小昆弥・末振将が大昆弥の後継者を暗殺した事件の後始末として、西域都尉の段会宗が末振将の子・番邱を誘殺したところ、新たに立った小昆弥・安犁靡が兵を率いて会宗を包囲、援軍を求める急報が届いた。
  • 王鳳は罪を得て士伍に落ちていた元将軍・陳湯を推挙。陳湯は「胡兵は弱く、会宗が本気で救援を求めているのではなく報復の大挙を望んでいるだけ」と分析し、五日以内に吉報が届くと予言した。

会宗、弁舌で囲みを解く

  • 果たして四日後、小昆弥が退いたとの報が届いた。会宗は安犁靡に対し、宛王・郅支の末路を引き合いに漢の武力を説き、また番邱誅殺を事前に知らせなかった理由を筋道立てて説明し、安犁靡を納得させて撤兵させた。
  • 会宗は関内侯・黄金百斤を賜り、陳湯も王鳳に重用されて幕僚となったが、後に受賄で再び免官、病死した。会宗は再度西域に赴任し在任のまま75歳で没し、諸国が祠を建てて悼んだ。

王尊の治水と忠節

  • 一時辞職していた王尊は王鳳の推挙で再び用いられ、京兆尹として盗賊を平定し治績を上げたが、権貴の讒言で罷免。のちに東郡太守として復帰。
  • 黄河の金堤が決壊しかけた際、王尊は自ら堤上に留まり、白馬を沈めて河神に祈り、我が身を捧げる覚悟で動かなかった。水勢はやがて引き、堤は保たれた。功により秩を進められたが、任地で病没し、民は祠を建てて祀った。

五侯の封と王商の受難

  • 河平2年、成帝は舅の王譚・王商・王立・王根・王逢時を同日に列侯とし「五侯」と称された。外戚の隆盛は前代未聞の規模となった。
  • 劉向は「洪範五行論」を著して暗に王氏の専権を戒めたが、成帝は改めなかった。
  • 丞相王商(王鳳の従弟筋とは別)は威風堂々とした人物で、単于も一目置くほどであったが、これが王鳳の妬みを買った。
  • 王鳳は瑯琊太守(王鳳の姻戚)を巡る意見対立や、王商の私生活を巡る讒言(耿定の告発)を利用して王商を追い詰めた。王商は太后への取り入りとして娘の入宮まで画策したが失敗し、大中大夫張匡の弾劾を受けて丞相印綬を取り上げられ、憤死した。
  • 張禹が新たに丞相に立てられたが、王鳳への遠慮から終始追従に終始した。

王章の直諫と獄死

  • 定陶王劉康が入朝して久しく都に留まると、王鳳は日食を口実に定陶王を帰国させた。
  • 京兆尹の王章は王鳳の専権を厳しく批判する上奏を行い、瑯琊太守馮野王を後任にと推した。
  • 王鳳は激怒したが、腹心の杜欽の助言で表面上は怒りを抑えた。王章はかつて貧窮の中で妻に励まされた逸話を持つ剛直の士であり、妻の制止も聞かずに弾劾状を提出した。

評語

王鳳の行状は権臣とは言えても奸臣とまでは言い切れない。陳湯・王尊の登用は王鳳の知人の明でもある。しかし王商・王章への仕打ちは私怨による陥害であった。王商が娘を後宮に入れようとしたのは自ら醜聞の種をまいたものであり、王章もまた、王鳳の推挙を受けながら恩義を顧みず直情に弾劾に走ったことが禍を招いた。