前漢演義第九十一回 直言のおかげで太子は地位を保ち、皇后を寵する件で臣下が共に諫める (賴直諫太子得承基 寵正宮詞臣同抗議)
元帝、廃太子を思案する
- 元帝は病が重くなるたびに膠東王を立てた景帝の故事を尚書に問い、暗に太子廃立をほのめかした。
- 元帝は音楽の才に優れた定陶王劉康(傅昭儀の子)を溺愛していた。
- 駙馬都尉の史丹は、才芸だけを取るなら楽人を重用すべきだと諫め、元帝も苦笑した。
中山王の喪と史丹の機転
- 元帝の弟・中山王劉竟が急死し、元帝は太子劉驁を伴って弔問したが、太子に哀しむ様子がないことを怒った。
- 史丹はとっさに「自分が太子に涙を止めさせた」と偽って責めを負い、太子を庇った。
史丹、青蒲に伏して諫める
- 元帝重病の折、定陶王の生母・傅昭儀が入侍し、太子廃立を吹き込んでいた。
- 史丹は皇后専用の場所とされる青蒲に踏み込んで叩頭し、太子廃立の噂を止めるよう死を賭して諫言。
- 元帝は本意ではなかったと述べ、太子を守るよう遺言した。
成帝の即位と石顕の失脚
- 元帝崩御(42歳、在位16年)。太子驁が即位(成帝)。母王氏を皇太后、祖母上官氏の系統は既に故人。
- 母舅の王鳳を大司馬大将軍とし、王氏専権の始まりとなった。
- 権臣石顕は成帝の代に長信太僕に左遷され実権を失う。丞相匡衡・御史大夫張譚がかつての石顕への阿附を翻し弾劾、石顕は罷免され帰郷途上で病死。一党の五鹿充宗・伊嘉・牢梁・陳順も処分され、世間はこれを喜んだ。
直臣王尊の生涯
- 王尊は匡衡・張譚が石顕弾劾に便乗し保身を図ったことを弾劾したが、成帝は即位間もないため丞相を処罰せず、王尊自身が左遷された。
- 王尊は貧しい牧童から身を起こし、益州刺史時代に先人王陽の故事(九折阪の危険を避けて辞職した話)を踏まえ、あえて危険な道を進み「王陽は孝子、王尊は忠臣」と言ってのけた。
- 東平相として驕慢な東平王劉宇を厳しく戒め、宇が刀を見せろと挑発した際も機知で切り抜けた。しかし宇の母・公孫婕妤の讒訴により免官。
- 成帝即位後、王鳳に用いられて司隷校尉となるが、匡衡・張譚弾劾で再び左遷され、病と称して辞職した。
外戚王氏の隆盛
- 成帝は母方の外戚を厚遇し、王鳳を大将軍とするほか、母の兄弟らを次々と列侯に封じた。
- 黄霧などの異変が続き、諫官らは外戚偏重を諫めたが、成帝は聞き入れなかった。
- 太后の生母の再婚先の子(苟参)にも官職を与えるなど、外戚優遇はさらに広がった。
許皇后の冊立
- 成帝は東宮時代から美貌の許氏を寵愛し、即位後も専寵。子は生まれてもすぐ夭折した。
- 大将軍幕僚の杜欽は、後継のため広く淑女を選ぶよう進言したが、王太后は旧制に固執し却下。建始2年、許氏を皇后に冊立。
長雨と訛言騒動
- 大旱の翌年、長雨が四十余日続き、長安で「大水が来る」との流言が広まり民が混乱、死傷者も出た。
- 王鳳は両宮太后・後宮を船で避難させる案を出したが、左将軍王商(王鳳の弟とは別人)は訛言と断じて動じず、結局大水は来なかった。成帝は王商を高く評価し、王鳳は面目を失った。
王商の失脚と丞相交代
- 王商は宣帝母方の外戚で、孝行と譲財で名を得た人物。左将軍として重用されたが、王鳳とは疎遠であった。
- 成帝は許嘉(許皇后の従弟で成帝の岳父格)から兵権を取り上げるなど、王鳳への権力集中を進めた。
- 建始3年末の日食・地震を機に諫言が相次ぐ中、丞相匡衡は子の不祥事や封邑不正の弾劾を受けて庶人に落とされ、王商が丞相に昇進、尹忠が御史大夫となった。
谷永の対策と外戚擁護
- 天変が続く中、太常丞の谷永は上奏し、災異の責は外戚ではなく後継者不足・後宮の偏りにあるとし、暗に許皇后への寵愛集中を非難した。
- これは実質的に王鳳ら外戚を擁護する論法であり、谷永と杜欽はこの対策で高く評価された。
- 両者の出世は権門への迎合によるものと世に見なされた。
評語
太子驁は嫡長子であり、正統に立てられて当然であった。元帝が傅昭儀に惑わされかけたのを史丹が諫止したのは義にかなう。太子が立たず定陶王が立っていたら、傅昭儀の専横でさらに乱れたであろう。天変を外戚のせいにせず許后の寵愛のせいにした杜欽・谷永の言は、帝后を離間し禍の種をまいたものであり、その罪は権戚への阿附にとどまらない。