前漢演義第五十一回 老郎官は諫言して魏尚を救い、賢丞相は面前で鄧通を弾劾する (老郎官犯顏救魏尚 賢丞相當面劾鄧通)
肉刑の廃止
- 文帝は淳于意父娘を赦免した後、緹縈の上書にあった「刑を受けた者は元に戻れない」という一節に感じ入り、肉刑(黥・劓・斷趾)を廃止する詔を下した。
- 丞相張蒼らが協議し、黥刑は苦役(城旦舂)に、劓刑は笞三百に、斷趾刑は笞五百に改められた。
- 後に文帝は淳于意の医術を聞き、都に召して治療歴を尋ねた(詳細は『史記』倉公列伝に譲る)。
匈奴の侵入と辺境防衛
- 文帝十四年冬、匈奴十四万騎が朝那・蕭関から侵入し、北地都尉孫卬を殺害、回中宮まで焼いた。
- 文帝は周舎・張武らを将軍に任じ長安を守らせ、盧卿・魏遫・周灶を辺境に配した。親征を望んだが薄太后に止められ、代わりに張相如らを派遣し匈奴を撃退させた。
馮唐と魏尚の一件
- 文帝が郎署で老人馮唐に出会い、趙の名将李齊・廉頗・李牧の話をした際、馮唐は「陛下は頗牧を得ても重用できまい」と直言し、文帝を怒らせた。
- 後に召し出された馮唐は、上古の名君が将軍に全権を委ねた故事を引き、雲中守魏尚が私財を投じて士卒を厚遇し匈奴を撃退したにもかかわらず、戦果報告の首級数がわずかに違うだけで罷免・投獄されたことを訴えた。
- 文帝は怒りを転じて喜び、馮唐に節を持たせて魏尚を赦免・復職させ、馮唐自身も車騎都尉に任じた。以後、辺境は文帝の善政のもと概ね平穏が続いた。
公孫臣の土徳説と黄龍の出現
- 文帝・薄太后はともに黄老思想を好んだ。魯人公孫臣は「漢は土徳にあたり黄龍が現れる」と上言、丞相張蒼はこれを退けたが、文帝十五年に隴西成紀で黄龍出現の噂が伝わると、文帝はこれを信じて公孫臣を博士に取り立て、改元・服色を黄に改める議論を進めた。張蒼は次第に疎んじられた。
新垣平の欺瞞
- 趙人新垣平が方術を装って現れ、「東北に神気あり」と説いて渭陽に五帝廟を築かせ、上大夫に任じられた。
- さらに巡狩封禪の議、五人の怪しい人影、「人主延壽」と刻まれた玉杯の献上、「日が二度南中する」という虚言などで文帝を惑わし、改元(後元年)まで行わせた。
- 汾陰に周鼎出現の兆しがあると偽って廟の造営を進言していた矢先、欺瞞を告発する者が現れ、新垣平は廷尉張釋之の取り調べで罪状をすべて自白、一族もろとも処刑された。
- 文帝はこれを機に迷妄から覚め、汾陰廟の工事を止め、巡狩封禪の議も沙汰止みとなった。
丞相交代と申屠嘉の剛直
- 張蒼は公孫臣に寵を奪われて以来病と称して朝に出ず、高齢のため罷免。文帝は外戚竇広国の登用を避け、旧臣申屠嘉を丞相に任じた。
- 申屠嘉は剛直な人物で、ある時朝廷で怠慢な様子の侍臣(鄧通)を見咎め、文帝に諫言したが、文帝は表向き諫めを受けつつ内実は鄧通を庇い続けた。
鄧通の寵愛
- 鄧通は蜀出身の黄頭郎(御船水手)で、特に才もなかったが、文帝が見た「空に昇ろうとして黄頭郎に押し上げられる夢」の人物に容姿(衣服の破れ穴と「鄧」の字)が一致したことから異常に寵愛され、大中大夫にまで昇進した。
申屠嘉、鄧通を召喚
- 丞相申屠嘉は鄧通の失儀を口実に、彼を相府に召し出し処断しようとした。文帝は一旦鄧通を宮中から行かせるほかなく、鄧通は恐れながら相府に赴くが、申屠嘉は開口一番「斬」の一語を発する。次回に続く。
評語
文帝は過ちを犯しても改める点で仁君と評される。魏尚を罰しすぎた過ちを馮唐の諫言で直ちに改めたこと、公孫臣・新垣平の妄言に惑わされながらも最終的に新垣平を誅して迷いを断ったことは、いずれも「過ちを見て仁を知る」例といえる。鄧通への濫賞は瑕疵だが、丞相を重んじ寵臣を抑えた点はなお文帝の美点として評価される。