前漢演義第五十二回 碁の争いで呉太子が命を落とし、周亜夫は軍営を厳しく律する (爭棋局吳太子亡身 肅軍營周亞夫守法)

鄧通、危うく処刑されかける

  • 申屠嘉は鄧通を大不敬として斬罪を宣言し、鄧通は額から血を流すほど叩頭して命乞いをした。危機一髪のところで文帝の使者が「鄧通は朕の弄臣に過ぎぬ、丞相よ死罪を許せ」との詔を伝え、申屠嘉はやむなく釈放した。
  • 文帝は変わらず鄧通を寵愛し、上大夫に昇進させた。

銅山の下賜と鄧通の富

  • ある相士が鄧通の相を「将来貧窮し餓死する」と評したことに文帝は憤り、「富貴を保証してやる」と蜀郡嚴道の銅山を鄧通に与え、自由な鋳銭を許した。
  • 当時、呉王濞も銅山と製塩で富を築いており、東南は呉銭、西北は鄧銭が流通するほどとなった。

癰の吮血と太子との確執

  • 文帝が癰(できもの)を患った際、鄧通は膿を口で吸い取って仕えた。文帝が「誰が朕を最も愛するか」と問うと鄧通は「太子」と答えたため、文帝は太子にも同様のことをさせた。太子は嫌悪を隠せず、後にそれが鄧通の常習と知って深く恨みを抱いた(後の伏線)。

諸侯王の再編と呉太子の死

  • 斉王一族の断絶を機に、文帝は斉の地を六分割し悼恵王肥の六子を諸王に封じた(後の七国の乱の伏線)。
  • 呉王濞の子・呉太子賢が入朝した際、皇太子啓と囲碁で争い、態度の悪さから皇太子が碁盤を投げつけて呉太子を死なせてしまった。
  • 呉王濞はこれを深く恨み、以後入朝を拒み、文帝の再三の招請にも病と称して応じなかった。

袁盎の調停

  • 呉に赴任した袁盎は、甥の助言に従い呉王を刺激せず、ただ謀反だけは思いとどまらせる方針をとり、呉王もこれに応じて当面は穏便に過ごした。

匈奴との和親と再びの侵攻

  • 文帝は改元後、匈奴と和親を結び書簡を交わしたが、老上単于の死後、子の軍臣単于の代になると漢の裏切り者・中行説の勧めで匈奴が再び侵攻、文帝後六年冬に六万余騎が上郡・雲中に攻め込んだ。
  • 文帝は令勉・蘇意・張武を三路に派遣する一方、周亜夫を細柳、劉礼を霸上、徐厲を棘門に駐屯させ守りを固めた。

細柳の軍紀

  • 文帝が労軍に赴いた際、霸上・棘門の陣営は皇帝の車駕にすぐ通したが、周亜夫の細柳営だけは「将軍の命令のみに従う」として文帝の使者にも節を確認させ、軍中では馬を走らせぬよう命じるなど厳格な軍紀を貫いた。文帝はこれを「真の将軍」と称賛した。

許負の予言

  • 許負という老女の相士は周亜夫に「三年後に侯となり、八年後に将相を極めるが、最後は餓死する」と予言した。周亜夫は半信半疑であったが、後に兄勝之が罪を得て封を失い、周亜夫が条侯に封じられ中尉に昇進する成り行きとなった。

文帝の崩御

  • 文帝は病床で太子啓に「事あらば周亜夫を用いよ」と遺言し、在位二十三年、四十六歳で崩御した。倹約を旨とし、民を愛し法を軽んじた治世は「守成の令主」と称えられた(短喪の遺詔のみ批判された)。
  • 太子啓が即位することとなる。

評語

呉太子は父の寛仁に比べて度量が狭く、囲碁の一件に見える陰鷙さは後の禍根となった。周亜夫は文帝の知遇があってこそ細柳の名将ぶりが活かされた。良将は明君に見出されてこそ働けるものである。