前漢演義第五十三回 申屠嘉は心血を尽くし憤死し、呉王劉濞は謀反の首謀となる (嘔心血氣死申屠嘉 主首謀變起吳王濞)
景帝の即位
- 太子啓が即位して景帝となり、薄太后を太皇太后、竇皇后を皇太后とした。文帝に「孝文皇帝」「太宗」の廟号を贈り、遺命に従い喪を短くして霸陵に葬った。
- 太子時代に司馬門で下車しなかった件を恐れた廷尉張釋之は、王生の助言で景帝に謝罪し咎めは免れたが、半年後に淮南相へ転出させられた。後任は張歐。景帝は笞刑をさらに軽減した。
太皇太后の崩御と皇后の廃立の伏線
- 薄太皇太后が崩じ、景帝は薄氏の姪孫女を皇后に立てたが寵愛はなかった(後の廃后の伏線)。皇子たちを各地の王に封じた。
鼂錯の台頭と申屠嘉の憤死
- 鼂錯は内史として重用され、様々な改革を進めたが、無断で太上皇廟の垣を破って新しい門を作った。
- 丞相申屠嘉はこれを大不敬として弾劾しようとしたが、鼂錯が先に景帝へ直訴して事後承諾を得ていたため、申屠嘉の奏上は退けられた。
- 申屠嘉は憤激のあまり血を吐いて病臥し、まもなく死去した。景帝は陶青を丞相、鼂錯を御史大夫に任じた。
鄧通の没落
- 鄧通は申屠嘉の死後も景帝に疎まれ続け、盗鋳の疑いで投獄されて銅山と家産を没収された。館陶長公主の恩情で一時食いつないだが、最終的には無一文のまま餓死し、かつての相士の予言が的中した。
鼂錯の削藩策と諸侯の反発
- 鼂錯は諸侯王の封地削減を提案、まず呉から着手すべしと説いた。景帝は諮問したが、竇嬰のみが反対して一旦保留となった。
- 梁王武の入朝の宴で、景帝が酔って「千秋万歳の後は帝位を梁王に」と失言した際、竇嬰が諫めて景帝を戒めた。竇太后の不興を買い竇嬰は一時失脚した。
削地の実行と七国の結託
- 竇嬰失脚後、鼂錯は削藩を再開。楚王戊(薄太后の喪中に不謹慎だったとして東海郡を削る)、趙王遂(常山郡を削る)、膠西王卬(六県を削る)と次々に処分した。
- 鼂錯の父は「劉氏は安んじるが鼂氏は危うい」と諫めて潁川に帰り、鼂錯は方針を変えなかった。
- 呉王濞は自国の削地を恐れ、膠西王卬に使者応高を送り「先に手を打つべし」と説き、両国は密約を結んだ。さらに楚・趙も同調し、呉・楚・趙・膠西・膠東・菑川・済南の七国が同時に挙兵した(斉と済北は途中で離脱)。
呉楚の挙兵
- 呉王濞は六十二歳で自ら将となり、二十万の兵を発した。淮水を渡って楚と合流し、東越も一万の援兵を送った。淮南・衡山・廬江の三国は加わらなかった。
- 呉楚連合軍は梁国に攻め込み、梁王武が急使を送って救援を求めるところで、景帝は群臣を召集し対策を協議することとなった。
評語
申屠嘉は剛直だが性急にすぎ、鄧通を軽々に誅そうとした点はやや無謀であった。景帝の寛容と鄧通の凡庸さゆえに大事に至らなかったに過ぎない。呉王濞の挙兵は鼂錯の強硬策に誘発された面もあるが、その野心はもとより抑えがたく、名分なき企てが成功するはずもない。楚・趙・膠西以下の諸王も、身の程を弁えぬ愚挙であった。