前漢演義第五十回 中行説は漢に背き匈奴に降り、緹縈は上書して父の罪を贖う (中行說叛國降虜庭 緹縈女上書贖父罪)
劉長の餓死
蜀への流罪となった劉長は、護送の途中で「自分の驕慢が招いた結果だ」と悔い、食を絶って餓死した。雍県で発覚すると文帝は慟哭し、袁盎は「陛下に落ち度はない」と慰めたが、文帝は自責の念を拭えず、護送に関わった沿道の官吏数十人を処刑し、劉長を列侯の礼で葬り守冢を置いた。
淮南国の再分封
文帝は劉長の子四人をそれぞれ侯に封じたが、民間では兄弟の不和を諷する歌謡が広まった。文帝はこれを聞いて心を痛め、劉長に厲王の諡を贈り、長子劉安に淮南王を襲封させるとともに、衡山郡・廬江郡を分けて他の子に与え、淮南は三国に分割された。
賈誼の召見と梁王太傅への転任
長沙王太傅の賈誼はこの措置を諫めたが容れられなかった。文帝は改めて賈誼を宣室に召し、鬼神について夜通し語り合い、「賈生に及ばぬと知った」と感嘆したが、翌日には梁王揖の太傅に任じただけであった。賈誼は失意のうちに「治安策」(諸侯の強大・匈奴の脅威を痛哭すべき事とし、奢侈・尊卑の乱れ・礼義廃退・廉恥喪失・儲君教育の不備などを長太息すべき事とする建言)を上奏したが、文帝は当面の急務でないとして棚上げにした。
中行説の匈奴降伏
匈奴では冒頓単于が死に、子の稽粥(老上単于)が立った。文帝は和親のため宗室の娘を閼氏として嫁がせ、宦官中行説に護送を命じた。行くことを嫌った中行説は「無理に行かせるなら漢の害となってやる」と捨て台詞を残して出発した。案の定、匈奴に着くと寵愛を得て居着き、単于に献策して漢の絹帛・食物への依存を断つよう説き、絹の衣は荊棘で破れやすいが毛皮は破れないことを実演して匈奴の風俗回帰を促した。さらに人口・家畜の記録法を教え、漢使の非難(老人を軽んじる、父子で妻を共有する等の風習批判)にも巧みに弁駁し、漢の書簡より大仰な様式の返書を作らせるなど、匈奴の国力強化に加担した。
賈誼の三表五餌の策
匈奴の無礼を知った賈誼は、「三表(信・愛・好を示して匈奴を懐柔する)五餌(贅沢な衣食・音楽・邸宅・饗応で単于の心身を蕩かす)」の策を上奏し、自ら屬国の任に就いて単于を制すると豪語したが、文帝は年少の誇張と見て採用しなかった。
薄昭の死
文帝十年、甘泉宮に行幸した文帝の留守中、京を預かった将軍薄昭が私怨から漢の使者を殺害した。文帝はやむなく公卿を薄昭の家に送って自尽を勧め、なお応じないと群臣に喪服で弔問させ、ついに薄昭は服毒自殺した。
梁王揖の死と賈誼の死
文帝十一年、梁王揖が落馬事故で急死した。賈誼は梁王の後嗣を立てるよう上奏し、淮陽王武を梁王に、太原王参を代王に移すことが実現したが、賈誼自身は傅としての責を果たせなかったことを悔い、鬱々として一年余り後に三十三歳で病没した。
中行説と鼂錯の辺防策
中行説の助言を得た稽粥単于はたびたび侵入を繰り返し、狄道への侵掠に対して文帝が抗議しても応じなかった。太子家令の鼂錯は「地形の利・兵士の練度・武器の利鈍を見極めて対処すべき」「降胡を漢軍の先鋒に用いるべき」との兵事論を上奏して称賛され、さらに募民を辺境に移して守望させる策、穀物を納めて爵位や罪の減免を得る「入粟輸辺」策を提言し、文帝に多く採用されて寵を得た。
伏生の尚書伝授
鼂錯は太常掌故として済南の老儒伏生のもとに派遣され尚書を学んだ。伏生は秦の焚書令の際に尚書を壁に隠して保存したが、乱世を経て取り出した書は損傷し二十九篇のみが残った。高齢で言葉も不明瞭な伏生に代わり、娘の羲娥が父の教えを取り次いで鼂錯に伝授した。
緹縈の上書
斉の名医淳于意は公乗陽慶に医術を学び名声を得たが、気ままな性分から往診を断ることも多く、恨みを買って肉刑の判決を受け、長安への護送が決まった。五人の娘のうち末娘の緹縈は「男子がいれば」と嘆く父に奮起し、共に長安へ赴き、上書して「父の罪を贖うため自ら官婢となる」と願い出た。文帝はこれに心を動かされ、淳于意を赦免した。この後、文帝は肉刑を廃止する詔を発することになる(詳細は次回)。
評語
異民族との和親はすでに下策であり、その上に中行説を強いて遣わしたのは失策であった。宦官である中行説は使いに堪える器ではなく、しかも予め害をなすと公言していたにもかかわらず、あえて派遣したのは何のためか。賈誼の三表五餌の策も全て行うべきものではなく、鼂錯の辺事論も可否が入り混じる。異民族への対処は内治外攘に尽きるのであり、それ以外に良策はない。鼂錯が伏生から経を受けたのは伏生の娘の伝授によるものであり、それとは別に上書して父の罪を贖った緹縈がいる。漢代はなお古を去ること遠からず、女子の教えの遺風があったことが知れる。一人は経学の伝承で、一人は孝行で名を残し、この二人の前では賈誼・鼂錯も顔色なしであろう。