前漢演義第四十九回 辟陽侯は椎撃を受け落命し、淮南王は謀反して囚われる (辟陽侯受椎斃命 淮南王謀反被囚)
淮南王劉長の出生
淮南王劉長は高祖の五男で、母は趙姫。趙姫は趙王張敖の宮に仕えていたところ高祖に召され、一夜で身ごもった。まもなく貫高らの謀反事件に張敖が連座し、趙姫も河内の獄に繋がれた。趙姫は懐妊を訴えたが取り合われず、弟の趙兼が審食其(辟陽侯)に取り成しを頼んだものの、呂后が拒み実現しなかった。趙姫は男子を産んだ後、絶望して自ら命を絶った。高祖はその遺児を憐れんで劉長と名づけ、呂后に養育を命じ、趙姫の遺骸は真定に葬らせた。
審食其殺害
劉長は成長して呂后に可愛がられ、無事に淮南王となった。母の悲劇を知り、取り成しを拒んだ審食其への怨みを募らせるが、手を出せずにいた。文帝三年、審食其が勢力を失った頃を見計らい入朝した劉長は、文帝に厚遇されて長逗留する。文帝と狩に出た際も「大兄」と呼ぶなど不遜な態度を取ったが、文帝は咎めなかった。ある日、劉長は密かに鉄槌を懐にして審食其を訪ね、出迎えた審食其を一撃で打ち倒し、従者に首を斬らせて立ち去った。
文帝の裁定
劉長はそのまま宮門に至り、肉を露わにして文帝に謝罪し、「審食其は母の冤罪を呂后に取り成さず、趙王如意母子の非業の死にも力を尽くさず、諸呂の専横にも沈黙していた三つの罪がある。天下のためにこれを誅し、母の仇を報いた。事前に上奏しなかった罪は甘んじて受ける」と述べた。文帝は内心審食其を快く思っていなかったこともあり、劉長を不問に付し帰国させた。中郎将袁盎は「専横を放置すれば後患となる、封国を削るなどして戒めるべき」と諫めたが、文帝は答えなかった。
朱建の自尽
文帝は審食其の一党として朱建を追及しようとしたが、朱建は「自分が死ねば子らに累が及ばない」と自刎した。文帝はこれを聞き「殺す気はなかった」と述べ、朱建の子を中大夫に取り立てた。
季布と曹邱生
文帝四年、丞相灌嬰が病没し張蒼が丞相に、河東守季布が召されて御史大夫にと図られた。楚人の曹邱生は権貴に取り入り利を得る人物で、季布は竇長君に忠告する書を送っていたが、曹邱生自身が季布を訪ね「季布の名声も人の吹聴があってこそ」と説き、季布はかえって彼を歓待し、以後曹邱生の喧伝で名声が高まった。文帝が季布を召したものの悪評もあって沙汰がないため、季布は「一つの誉れで召され、一つの謗りで見捨てられれば、天下の者に浅深を見透かされる」と直言し、文帝は河東守への復任を命じた。季布の弟季心も任侠で知られ、土豪を殺して袁盎の家に匿われた際、袁盎の取り成しで罪を免れ中司馬に推挙された。
周勃の下獄と釈放
封国に帰った周勃は、河東の官吏の巡視のたびに甲を着て武装した家丁に守られるなど不安げな様子を見せ、これが謀反の疑いとして密告された。文帝は廷尉張釈之に命じて周勃を逮捕させた。河東守季布の説得で周勃は武装を解いて上京し、下獄した。獄吏に賄賂を贈ってようやく待遇が改善し、獄吏の助言で「公主を証人に立てよ」との策を得る。周勃の子勝之の妻である公主(文帝の娘)が宮中で嘆願し、また薄太后の弟薄昭や、かつて周勃を弾劾した袁盎までもが周勃の無実を訴えた。薄太后は文帝を厳しく責め、文帝はついに周勃を釈放した。周勃は「百万の兵を率いても恐れなかったのに、獄吏の恐ろしさを初めて知った」と述懐し、袁盎らに礼を述べて封国へ帰った。
(参考として、張釈之が中渭橋を驚かせた者を罰金刑に留めた一件、高廟の玉環を盗んだ賊の処分を巡り文帝と論争した一件が語られ、いずれも釈之の公正な裁きぶりを示す。)
淮南王劉長の反乱
封国に帰った淮南王劉長は天子の儀仗をまねるなど驕慢を極め、文帝の訓戒にも「布布として国を去り真定で墓守をしたい」と抗弁した。文帝は将軍薄昭に書を送らせ、劉長の八つの過ち(先帝の苦労を思わぬ不孝、父祖の業を守れぬ不賢、真定の母を優先する不義、法を軽んじる不仁、王侯の位を賤しむ不智、学問を好まぬ不祥など)を挙げて改心を促したが、劉長は改めず、逆に大夫但ら七十人を関中に潜入させ、棘蒲侯柴武の子柴奇と組んで谷口での挙兵を企てた。柴武配下の開章が使者として劉長に南は閩越、北は匈奴との連携を勧めたが、密書が関吏に発見され朝廷に露見。劉長は開章を殺して隠蔽を図ったが露見し、召還に応じて入京した。丞相張蒼・馮敬らの合議で死罪相当とされたが、文帝は同胞の情から死一等を減じ、王爵を剥奪して蜀郡厳道県邛郵への流罪とし、家族の同行と衣食の供与を認めた。共謀者は皆処刑された。
袁盎は「賢傅を付けなかった陛下の落ち度が原因、劉長の剛烈な性分では挫折に耐えられまい」と諫めたが、文帝は「暫く苦しませ悔悟させるだけだ」と取り合わなかった。しかし一月余り後、劉長が護送の途上で自尽したとの報が届き、文帝は慟哭した。
評語
審食其を誅すべくして誅さなかったことは文帝の刑罰運用における最大の失策である。劉長が朝覲を名目に審食其を撃殺したのは痛快な行為ではあるが、大臣を擅殺した罪は免れない。死一等を減じるのはよいとしても、そのまま帰国させたのは誤りであった。劉長の驕慢はすでに明らかであり、この機に罪を正して抑えていれば謀反にも至らず、むしろ本人を保全できたはずである。厚みに欠ける周勃には常に猜疑の目を向けながら、驕横不法な劉長には放任した文帝の態度は、親疎によって扱いを違えたものであり、私心なしとは言い難い。私心を去ることの難しさを物語る一例である。