前漢演義第四十回(第040回)
論功行賞と呉王濞
英布討伐後、長沙王呉臣が英布の首級を献上し、周勃も陳豨残党を討ち代郡を平定したとの報告が届く。荊王劉賈の死後、跡継ぎがなかったため甥の劉濞を呉王に封じたが、高祖は濞の人相に反乱の兆しを見て不安を漏らし、「五十年後、東南に乱があればお前の身に応じるかもしれない、慎んで謀反するな」と釘を刺した(後の呉楚七国の乱を暗示する記述)。
太子廃立の再燃
高祖は矢傷の悪化と戚姫の懇願を受け、再び太子廃立を検討する。太子少傅張良、太子太傅叔孫通が強く諫止し、叔孫通は自刃を仄めかしてまで諫言した。
商山四皓の出現
太子を招いた宴席に商山四皓が同席し、高祖を驚かせる。高祖は太子の地位がすでに固まったと悟って廃立を断念し、戚姫の前で「鴻鵠高飛」の歌を歌って諦めるよう諭した。
蕭何の危機
加封された蕭何は食客召平の警告を受け、私財を軍需に供出して高祖の疑念を避ける。のちに民のため上林苑の開放を願い出たことが逆に高祖の怒りを買い投獄されるが、王衛尉の弁護により赦免された。
盧綰の離反
陳豨討伐に関連し、燕王盧綰の内通疑惑が浮上する。盧綰配下の張勝が匈奴および臧荼の子臧衍にそそのかされ陳豨支援に転じ、盧綰もまた呂后の専断を恐れて入朝を拒み続けた。高祖は激怒し、樊噲に討伐を命じた。
樊噲誅殺命令と高祖の崩御
讒言により高祖は樊噲も呂后一派とみなし、陳平・周勃に樊噲誅殺を命じる。しかし二人は密議のうえ、樊噲を捕らえるにとどめ高祖自身の判断を仰ぐ方針を取った。高祖は自身の死期を悟って治療を拒み、「白馬の誓い」(劉氏以外は王とせず、功のない者は侯としない)を立てた。呂后には後継人事(蕭何の後は曹参、その後は王陵・陳平・周勃)を指示し、十二年四月、長楽宮で崩御した。享年五十三。
評語
高祖が最終的に太子廃立を思いとどまったのは、戚姫への情から目をそらすための方便であったとする見方が示される。蕭何を投獄し樊噲誅殺を命じたのも、太子の将来を案じた最後の備えであり、後継人事の指示も同様の配慮に基づくとされる。ただし戚姫母子の安全にまでは十分な手が打たれず、後の悲劇(人彘の禍)を招いたことが惜しまれる。