前漢演義第三回 泰山を封禅し雨を避け、湘江を渡り風難に遭う (封泰岱下山避雨 過湘江中渡驚風)

西巡と馳道整備

  • 始皇帝は巡遊のため天下に馳道を敷かせ、二十七年秋には隴西・北地方面へ西巡する。目立った成果もなく咸陽へ帰還する。

鄒嶧山・泰山への東巡

  • 翌年、東巡に出て鄒嶧山に登り、功徳を称える文を石に刻ませる。さらに泰山を望み、古の封禅の儀礼について群臣に尋ねるが答えられる者がなく、鄒魯の儒者数十人を召し出させる。

封禅の儀と山中の暴風雨

  • 泰山下に集めた老儒たちに封禅の作法を問うが、質素な祭祀を説く老儒の答えが始皇帝の意に沿わず、儒者たちの意見をすべて退ける(後の坑儒の伏線となる)。
  • 独断で山頂に登り封礼を行い、下山して梁父山で禅礼を行おうとした際、突然の暴風雨に見舞われる。松の木陰に避難して事なきを得た始皇帝は、その松を「五大夫」に封じる。
  • 天候が回復すると簡略に禅礼を済ませ、功徳を誇る頌辞を石に刻ませる(碑文の内容は詳細に引用されるが、要するに天下平定と善政を自賛するもの)。

沿海巡遊と神仙への傾倒

  • 渤海沿岸を巡り黄腄・成山・之罘などで山川八神を祀り、石碑を立てる。瑯琊では、越王勾践の築いた古台の跡を知り、これを大幅に上回る規模で瑯琊台を新造させる。工事には数万人を動員し、完成後は労役者に十二年の免役を与える。碑文にはやはり自らの功徳が誇示される。
  • 瑯琊台から東海上に蜃気楼を見て神仙の山(蓬萊・方丈・瀛洲)だと信じ込み、不死の仙薬を得られないことを嘆く。斉人・徐市(徐福)の進言を容れ、童男童女数千人を船で東海へ派遣するが、逆風で近づけず何の成果も得られない。

泗水での周鼎探索と湘君への怒り

  • 帰途、彭城で泗水に沈んだとされる周鼎を千人がかりで探させるが見つからない。さらに湘山祠付近で船が暴風に遭い、これを湘君の祟りと見なして激怒し、山の木を伐り倒させ火を放って報復する。

二度目の東巡と博浪沙の狙撃

  • 二十九年、天下は表面上平穏であったが、始皇帝は再び東巡を企てる。前回以上に厳重な行列を整えて咸陽を発つが、陽武県の博浪沙にさしかかったとき、何者かが投げた鉄槌が副車を直撃する事件が起きる。
  • 章末(詩:天下統一を成した始皇帝を狙う義士が現れたことに触れ、たとえ暗殺が成らずとも千秋に名を残すと詠む趣旨)。

評語

封禅の儀礼は古書にほとんど見えず、後人の作り話に過ぎない可能性を指摘する。天子の巡狩は本来簡素であるべきなのに、始皇帝は馳道を広く敷き、封禅を口実に遊興にふけった。瑯琊台の造営や童男童女を派遣しての求仙も民を苦しめる行為であり、湘江での遭難も本来は行路の困難を戒める兆しと受け止めるべきところを、逆に湘君に怒りをぶつけて山を焼き払うという暴挙に出た。後世は始皇帝を「好大喜功」と評するが、その悪はそれにとどまらない、と結ぶ。