前漢演義第二回 嫪毐を誅して母を迎え、皇帝と称し法で民を愚かにする (誅假父納言迎母 稱皇帝立法愚民)
嫪毐の乱
- 長信侯に封じられ驕った嫪毐は、酒席での口論の際に自ら「秦王の仮父(義理の父)」と口走ってしまう。これを聞いた重臣が秦王政に報告する。
- 政(即位九年、成人)は密かに調査させ、嫪毐が宦官でなく太后と密通していた事実を突き止める。昌平君・昌文君を相国として兵を差し向けると、嫪毐は偽の御璽・勅命を作って抵抗するが敗れ、逃亡先で捕らえられる。
嫪毐一族の粛清と太后幽閉
- 嫪毐は車裂きの刑に処され、一族も誅殺される。太后が嫪毐との間にもうけた二子も殺され、太后自身は雍にある離宮に幽閉される。
- 嫪毐を太后に引き合わせた責のある呂不韋は、先王への功により死罪は免れたものの相国の職を解かれ、河南への封地に退けられる。
茅焦の直諫
- 太后幽閉に反対する諫言が相次ぐが、政は激怒してことごとく処刑し、諫死者は27人に上る。
- 斉の客・茅焦は、煮殺されることを恐れず「生死存亡の理を陛下は聞きたいか」と説き起こし、車裂き・幽閉・諫死者処刑が桀紂にも劣る暴政であり、天下の離反を招くと直言する。政は態度を改め、茅焦を上卿に取り立て、太后を都に迎え戻させる。
呂不韋の自殺
- 河南に退いた呂不韋のもとへ諸侯の使者が相次ぐのを警戒した政は、蜀への移住を命じる書を送る。呂不韋は将来に望みがないと悟り、毒酒を仰いで自殺する。密かに妻の墓に合葬される。
- のちに荘襄王后(夏太后系)と華陽太后も相次いで世を去り、政は喪に服して荘襄王と合葬する。
六国の統一
- 政は親政ののち急速に東方諸国を滅ぼしていく。韓(17年)・趙(19年)・魏(22年)・楚(24年)・燕(25年)・斉(26年)の順に滅亡させ、天下を統一する。
「皇帝」号の制定
- 統一を果たした政は、功業にふさわしい新たな称号を求めて群臣に議論させる。丞相王綰・御史大夫馮劫・廷尉李斯らは「泰皇」の号を提案するが、政はこれを退け、「皇」と「帝」を合わせた「皇帝」を自ら選ぶ。
- あわせて「諡は子が父を、臣が君を議することになるので不要」として諡法を廃止し、自らを「始皇帝」、以後は二世・三世と代を数えて無窮に伝えると定める。
水徳・郡県制の制定
- 鄒衍の五行相勝説に基づき、秦は水徳を称し、暦は建亥・十月を歳首とし、服色は黒、数は六を基準とするなど諸制度を定める。刑法は厳酷を旨とした。
- 丞相王綰らは燕斉楚など遠方の地に子弟を封建することを提案するが、廷尉李斯は周の分封が後世の内紛を招いた例を挙げて反対し、郡県制を主張。始皇帝はこれを容れ、天下を三十六郡に分割する。
- 郡には守・尉・監を置き、県には令を置く。郷里には十里ごとに亭、十亭ごとに郷を置き、三老・嗇夫・游徼を配する周制の名残を残した。
民の統制策
- 百姓を「黔首」と改称し、大酺(合同の宴)を許す一方、民間の兵器の没収、豪家・名士の咸陽移住、城郭・関塞の破却を命じる。いずれも反乱防止のためだが、民は移住や兵器没収により大きな苦難を被る。
- 没収した兵器を溶かして巨大な銅人十二体を鋳造し宮門前に並べる(後年、董卓・石虎・苻堅の手を経て失われる顛末が付記される)。
宮殿の造営
- 始皇帝は六国から接収した美女・楽器を集めた壮麗な宮殿群を渭南に築き、日々遊興にふける。信宮(のちの極廟)や甘泉前殿なども造営し、さらに天下に馳道を敷いて巡遊への準備を進める。
- 章末(詩:君主であることの難しさを説き、暴虐であった秦の故事を鑑とすべきだと戒める趣旨)。
評語
嫪毐が「仮父」と自称したのは無頼者らしい放言だが、茅焦までもがそれに乗じて始皇帝を説き伏せたのは奇異である。母が嫪毐と姦通した以上、離宮に移すこと自体は不当ではないが、幽閉や諫死者の処刑は過酷に過ぎる。茅焦の直言が功を奏したのも、孝心よりも「天下瓦解」という脅しが効いたためであろう。呂不韋も宥されず死に追いやられたことと合わせ、始皇帝の非情さが窺える。のちの六国併呑・皇帝号制定・諸法令はいずれも民を苦しめる政策であり、呂不韋が人を欺いて自ら欺かれたように、始皇帝も民を愚かにしようとして自らを滅ぼす結果を招いた、と結ぶ。