前漢演義第一回 策謀で美姫を献じ、身代わりで淫后に取り入る (移花接木計獻美姬 用李代桃歡承淫后)
「皇帝」という称号の由来
- 三皇五帝は本来「皇」「帝」を自称したわけではなく、後世の人々がその功徳を称えて贈った呼び名である。夏殷周の諸王も自らは「王」を称するにとどめた。
- 秦の嬴政は武力によって天下を統一すると、三皇の「皇」と五帝の「帝」を合わせ、自ら「皇帝」と称した。
- 語り手は、この称号は功徳ではなく武力と流血によって得られたものだと断じ、秦の君主専制が後世に及ぼした影響を厳しく批判する。堯舜禹湯や周の諸王は民意を重んじる「開明専制」であったのに対し、始皇帝以降の専制は民を顧みない絶対専制であるとする。
秦漢史の見立て
- 語り手は、漢は建国にあたり秦の制度を大きく改めなかったと指摘する。蕭何・叔孫通らも秦の旧慣に依った人物であり、専制の性格は秦漢を通じて変わらなかった。
- 高祖没後は呂后が権を専らにし危うく漢室を傾けかけたが、功臣たちの尽力で保たれた。文帝は倹約と寛刑で国力を養い、景帝もこれを継いだ。
- しかし武帝に至って始皇帝に酷似した好大喜功の性格が現れ、征伐・巡遊・猜疑・誅殺・土木・神仙・財色のいずれも始皇帝と重なると評される。文景二代の蓄えは武帝一代で蕩尽され、以後は国力が衰えていく。
- 元帝・成帝の代には佞臣が権を握り、外戚王氏が台頭、哀帝・平帝の代に至って王莽に漢室を奪われる。語り手はその遠因を武帝の代にまで遡らせる。
秦の系譜と呂不韋の登場
- 秦の遠祖は舜の時代の伯益に遡り、非子が周孝王に仕えて秦の地を与えられて以来、代を重ねて強大化し、孝公の代に商鞅の変法で富強となった。
- 昭襄王の孫にあたる異人(子楚)は人質として趙の邯鄲にあった。豪商・呂不韋は異人を「奇貨居くべし」と見込んで接近し、資金援助と人脈作りに協力する。
- 呂不韋は華陽夫人(太子安国君の正妃で子がない)に働きかけ、異人を跡継ぎに立てるよう仕向け、成功する。
趙姫の献上と政の誕生
- 呂不韋は寵愛していた歌妓(趙姫)を側室に迎えたのち身ごもらせ、その姫を宴席で異人に会わせて心を動かす。異人が姫を求めると、呂不韋は形の上で怒って見せたのち「正室に立てること」「生まれた子を嫡子とすること」を条件に姫を譲る。
- 趙姫はすでに懐妊しており、通常より遅れて男児を出産、正月元日生まれであったことから「政」と名付けられ、趙姓を借りて育てられる。異人は自分の実子と信じるが、実際には呂不韋の子であったことが暗示される。
帰国と即位
- 秦趙関係が悪化して邯鄲が包囲されると、呂不韋の計らいで異人は脱出して秦軍に投じ、妻子は後に呂不韋によって咸陽へ送り届けられる。
- 異人は華陽夫人(楚人)の心証を得るため楚の服を着て取り入り、夫人の養子として「子楚」と改名。昭襄王没後に即位した孝文王もほどなく世を去り、子楚が秦王として即位する。
- 子楚は華陽夫人を太后とし、実母夏姫も太后とし、趙姫を王后、政を嗣子に立て、呂不韋を相国・文信侯に封じる。
東周の滅亡
- 東周君が諸侯と結んで秦討伐を謀ると、子楚は呂不韋に軍を率いさせてこれを滅ぼし、東周君を遷す。周王朝八百年の宗廟がここに絶える。
荘襄王の死と呂不韋・嫪毐
- 子楚(荘襄王)は即位後まもなく病没し、13歳の政が即位する。政務は「仲父」と呼ばれる呂不韋に委ねられた。
- 若くして未亡人となった太后(趙姫)は、かつての情人であった呂不韋と密通を続ける。
- 政が成長するにつれ露見を恐れた呂不韋は、代わりの相手として精力絶倫の男・嫪毐を偽って宦官に仕立て太后に近づけ、寵愛を得させる。太后は嫪毐との間に密かに二子をもうけ、嫪毐は長信侯に封じられ権勢を振るうようになる。
- 章末(詩:嫪毐のような賤しい身分の者が房事の功で封侯され栄華を極めたことを皮肉り、暴君の淫欲がもたらす害を嘆く趣旨)。
評語
冒頭の「皇帝専制」の提起が全編を貫く主題であり、秦の造った専制を漢がそのまま継承したことを示すために秦漢を一書にまとめたと述べる。政の出生の経緯は、呂氏が嬴氏に取って代わる伏線であり、後年、政の母が呂不韋・嫪毐と密通を重ねたことと、政自身が暴虐な君主となったこととを結びつけて、後世への戒めとしている。