東周列國志茅焦が衣を脱ぎ秦王を諫め、李牧が堅壁で桓齮を退ける(第百零五回 茅焦解衣諫秦王 李牧堅壁却桓齮)
茅焦の諫言
- 秦大夫の陳忠が死んだ後も諫める者は絶えず、秦王はそのたびに斬り殺し、遺骸を闕下に晒した。前後で二十七人が誅殺され、屍が積み重なった。
- 斉王建と趙悼襄王が咸陽に来朝した際、闕下の死屍を見て、秦王の不孝を密かに嘆いた。
- 滄州の士人・茅焦は、旅先でこの話を聞き憤慨し、自ら諫死を覚悟して咸陽宮に赴く。同宿の者は無謀だと笑ったが、茅焦は「二十七人でやめれば秦王は聞く耳を持たないままだが、自分がさらに諫めれば聞くかどうかは分からない」と答えた。
- 闕下で茅焦は「天に二十八宿あり、死者はすでに二十七人、自分でその数を満たしに来た」と述べ、秦王を激怒させる。秦王は煮殺すよう命じたが、茅焦は従容として趣き、階下で「生ある者は死を諱まず、国ある者は亡びを諱まず」と説き、秦王の非道(仲父を車裂きにし、二弟を撲殺し、母を遷し、諫者を殺した罪)を指摘し、天下統一の大業がこれによって崩れることを説いた。
- 秦王は心を動かされ、湯鑊を退けさせ、茅焦に礼服を与えて座に招き、意見を受け入れた。茅焦の勧めで秦王は自ら太后を迎えに赴き、母子は和解した。二十七人の屍は「会忠墓」として手厚く葬られた。
- 秦王は茅焦を太傅・上卿に封じた。
呂不韋の最期
- 秦王は呂不韋が太后とまた通じることを恐れ、河南の本国へ追放したが、諸侯が呂不韋を迎えようと使者を送るのを知り、秦王は不韋に「秦への功も親も薄い、蜀郡へ一族ごと移せ」との書を送った。
- 不韋は自らの功と罪の大きさを嘆じ、鴆を仰いで自害した。門客が密かにその屍を北邙山に葬った。
李斯の逐客上書と韓非の死
- 秦王は不韋の賓客を国外に追放する令を出し、諸国出身の遊士も逐われることになった。李斯もその中に含まれたが、道中で「泰山は土壌を譲らず」に始まる上書(逐客の非を説く)を秦王に送り、秦王は令を撤回して李斯を呼び戻した。
- 李斯の進言により秦王は六国併呑を志し、まず韓を攻めさせる。韓の公子非(韓非)は秦に使いし、『説難』『孤憤』『五蠹』『説林』等の著作を献じて秦王に重んじられかけたが、李斯が「他国の公子は用いるべからず」と讒言し、韓非は投獄され、獄中で詩を賦して自ら喉を絞め自害した。韓王安は震え、秦に内属を請うた。
尉繚の献策と離間策
- 李斯の推挙で秦王は大梁の尉繚を招く。尉繚は列国が合従すれば秦にとって脅威であるとし、財貨で諸侯の重臣を篭絡して謀を乱す策を献じ、秦王に重用された。尉繚は密かに秦王の人相を「虎狼の心」と評し、天下を得れば人を魚肉にすると弟子に漏らしたが、秦王に引き止められ太尉に任じられた。
- 尉繚の策で秦はまず韓、次に趙・魏、三晋平定後に楚、と併呑の順を定める。趙を攻める名目として、尉繚の弟子・王敖を魏に遣わし、魏に趙へ鄴の地を割いて救援を求めさせ、趙がそれに応じたことを口実に趙を攻めさせた。
- 秦将桓齮が魏を攻め、趙が救援に出した扈輒の軍を破り鄴を陥落させる。趙は廉頗の起用を検討するが、廉頗に恨みを持つ郭開が趙王に「老いて使い物にならない」と讒言。使者の唐玖は郭開に賄賂を受け、実際は壮健だった廉頗を「食事中に何度も粗相した」と偽って報告し、廉頗は用いられずに終わる(後に楚へ赴くが失意のうちに没する)。
- 王敖はさらに郭開を秦への内通に誘い、多額の金を与えて将来の趙滅亡後の厚遇を約束する。悼襄王は憂懼のうちに病没する。
李牧の登用と桓齮撃退
- 悼襄王は寵愛する娼妓の子・遷を太子に立て、正嫡の嘉を廃していた。遷が即位すると郭開が相国として実権を握る。桓齮は趙の喪に乗じて宜安で趙軍を破り、邯鄲に迫る。
- 趙王遷は代の守将李牧を大将軍に起用。李牧は堅壁持久策をとり、桓齮が油断して分兵した隙に夜襲でその本営を破り、続く決戦でも桓齮軍を大破する。桓齮は敗れて咸陽へ逃げ帰り、庶人に落とされる。
- 趙王は李牧を武安君に封じ万戸を与えた。秦王政は改めて王翦・楊端和に趙攻撃を命じる。
評語
- 南屏先生の詩は、二十七人の屍が積まれる中で一人解衣して鑊に赴いた茅焦の忠義を称え、その命は死なずして忠名が万古に残ったことを詠う。
- 史臣の詩は、老いてなお壮健だった廉頗が讒言により遺矢の噂一つで見捨てられたことを惜しみ、郭開が金に目がくらんで賢将を退けた罪を、呉を滅ぼした宰嚭になぞらえて非難する。