東周列國志華陰道で信陵君が蒙驁を破り、胡盧河で龐煖が劇辛を斬る(第百零二回 華陰道信陵敗蒙驁 胡盧河龐煖斬劇辛)
毛公・薛公の説得で帰国を決意
- 毛公・薛公は信陵君に「秦が魏を攻めているのに祖廟を顧みないのか」と説き、信陵君は自らを恥じて即日帰国を決意。趙王は引き止めるが、上将軍の印と趙軍十万を授けて送り出す。燕・韓・楚も将を送り信陵君の指揮下に入る(斉のみ拒否)。
華陰の戦いで秦軍を大破
- 信陵君は郟州で蒙驁の軍を牽制する一方、自ら趙・燕・韓の兵を率いて華州の王齕を攻める。渭水の糧船を焼く陽動策で王齕をおびき出し、少華山の伏兵で挟撃して大勝、王齕は潼関へ敗走。
- 続いて郟州でも魏・楚軍と合流し蒙驁を撃破。連合軍は函谷関まで進んで威を示し、月余りで凱旋する。
- (詩:合従の勝利は毛公・薛公の陰の功によるとする内容)
信陵君、上相となる
- 魏安釐王は大いに喜び信陵君を上相に迎え、朱亥の罪も赦す。信陵君は賓客の兵法書を編み「魏公子兵法」二十一篇を著す。
秦の離間策で信陵君失脚
- 敗戦した蒙驁・王齕を秦王は罰せず、丞相蔡澤は「信陵君さえいなければ合従は崩れる」と進言。信陵君を秦に招こうとするが応じず、使者朱亥は虎の檻に入れられても屈せず、幽閉されて自ら命を絶つ。
- 蔡澤はさらに、晋鄙の残党を使って「信陵君が魏王位を狙っている」との流言を流させ、人質の太子増にも密かに働きかけて魏王の疑念を煽る。魏王は疑いを深め、信陵君は秦からの偽りの祝賀状をそのまま魏王に渡して潔白を示すが、疑いは晴れず、信陵君は病と称して兵権を返上し、酒色に溺れる日々を送る。
- (詩:信陵君の威名と晩年の酒色を対比して惜しむ内容)
荘襄王の死と秦王政の即位
- 荘襄王が病に伏すと、太后(旧趙姫)は呂不韋と旧情を通じ、王は間もなく崩御。十三歳の太子政が即位し、呂不韋が「尚父」として国政を握る。
信陵君の死と魏・趙の情勢
- 秦は蒙驁・張唐に趙の晋陽を攻めさせ、王齕は死を賭して韓を攻め戦死するが蒙驁は韓に大勝。趙では郭開の讒言で廉頗が楽乗に代えられ、怒った廉頗は楽乗を攻めて魏へ出奔。
- 秦王政四年、蝗害と疫病が起こる中、信陵君は酒色による病で没し、食客馮驩や殉死する賓客も多数出る。翌年魏安釐王も没し景湣王が立つが、秦は蒙驁を送って酸棗など二十城・東郡を奪い、朝歌・濮陽も落とす。
劇辛の敗死
- 燕は将渠に代えて劇辛を相国とし、廉頗不在に乗じて趙を攻めさせる。趙は龐煖を将とし、李牧に劇辛の退路を断たせる策を用いる。緒戦で燕軍副将が戦死するなど劣勢の劇辛は龐煖と一騎打ち問答の末に開戦、李牧接近の報に撤退を図るが、龐煖に胡盧河で追撃されて敗れ、自刎して果てる。
- (詩:劇辛の晩年の奮戦を惜しむ内容)
- 龐煖は李牧と合流して武遂・方城を取り、燕王は将渠を通じて講和を乞う。趙悼襄王は龐煖の武勇を賞し、龐煖は諸国合従による対秦戦を進言する。