唐史演義第九十三回 成都に奔り誤りて権閹を寵す/長安を復し追いて大盗を殲す (奔成都誤寵權閹  復長安追殲大盜)

鄭畋の挙義

  • 田令孜は僖宗を奉じ興元へ逃れる途中、鳳翔の鄭畋に迎えられた。鄭畋は討賊の権限を求め許され、当初及び腰だった将佐たちを気迫で奮起させ、賊からの偽の降伏勧告文書も焼き捨てて抗戦を決意、各道と結んで討伐軍を組織した。

鳳翔・河中の反攻

  • 河中節度使王重榮も黄巣から離反し朱温の攻撃を撃退、義成節度使王処存とともに官軍に加わった。僖宗は興元から成都へと移り、田令孜の勧めのままに蜀入りを続けた。
  • 鄭畋は京城四面諸軍行営都統に任じられ、龍尾陂の戦いで尚讓率いる黄巣軍を大破し二万余を討ち取った。

長安の一時奪還と再陥落

  • 程宗楚・唐弘夫らが長安に突入し一時奪還に成功したが、諸将は分捕りの功を争って掠奪にふけり守備が疎かになったところを黄巣軍の逆襲を受け、程宗楚・唐弘夫は戦死、長安は再び黄巣の手に落ちて大虐殺(「洗城」)が行われた。

李克用の帰参

  • 代北で監軍陳景思・李友金らが沙陀兵を集め、李克用父子の罪を赦免するよう朝廷に働きかけ、克用は韃靼から帰還して河東へ進軍した。楊複光は忠武節度使周岌を説得して黄巣から離反させ、鄧州を奪回するなど各地で反攻が進んだ。

田令孜の専横と諫言の弾圧

  • 僖宗は成都で田令孜に全権を委ね、宦官の北司が宰相の南司を凌駕する状態となった。左拾遺孟昭図は南北両司の均衡を訴える上疏を行ったが、田令孜はこれを握り潰した上、孟昭図を左遷し暗殺させた。
  • 地方では時溥・王緒(後の王潮に討たれる屠夫あがりの叛将)など雑多な反乱・自立が相次ぎ、鄭畋も部下に軍を奪われ辞任するなど、朝廷の統制はさらに崩れた。

王鐸・李克用による長安回復

  • 王鐸が諸道行営都統として出陣し、朱温(黄巣配下)が王重榮に投降し「全忠」の名を賜るなど戦局は転換した。李克用は四万の兵(黒衣の「鵶子軍」)を率いて河中に進み、沙苑で黄巣の弟黄揆を破り、渭橋の激戦で黄巣軍主力を撃破、長安を陥落させた。黄巣は宮殿に火を放って敗走した。
  • 論功行賞で李克用は同平章事に、まもなく最年少(二十八歳)で最も武功著しい存在となった(「独眼龍」の異名)。しかし諸軍は入城後に略奪を行い、長安はほぼ廃墟と化した。

黄巣の最期

  • 敗走した黄巢は秦宗権と結んで陳州を包囲し、趙犨兄弟が三百日近く籠城して防戦した。李克用の援軍到着で包囲は解かれ、黄巢は汴州方面へ逃走、朱全忠・李克用に追撃されて次々と敗北を重ねた。
  • 最終的に泰山近くの狼虎谷で追い詰められた黄巢は甥の林言に自らの首を託して自刃し、乱は十年に及ぶ大乱の末に終結した。

評語

鄭畋は先んじて義を唱えたが功を成す前に一度は挫折し、李克用は後から出て一挙に成功を収めた。鄭畋の忠義は決して劣らないが、書生の身で号令をかけたにすぎず、程宗楚・唐弘夫らが功を貪って備えを怠り再び賊に付け込まれたのは残念であった。李克用は新進気鋭で兵を統率する才があり、他の諸軍もこれを妨げなかったため一挙に長安を回復し逆賊を殲滅できた。人に頼る者は功を成しがたく、自らの実力による者は成しやすいという道理である。王鐸のような凡庸な者は二度出陣しても戦わずして逃げるか、大挙しても功を挙げられなかった。田令孜の嫉視がなくとも、もとより将帥の器ではなかったのであり、僖宗の暗愚と田令孜の専横は論ずるに値しない。