唐史演義第七十九回 制書を裂き郭太后奸を叱す/卜士を信じ張工頭乱を構う (裂制書郭太后叱奸 信卜士張工頭構亂)

劉悟と監軍劉承偕

昭義節度使劉悟は転任を拒み旧鎮に留まったが、太后の寵愛を頼む監軍劉承偕に侮辱され、さらに磁州刺史張汶と結んで自分を捕らえようとする陰謀を察知すると、張汶を殺させ承偕を捕らえた。裴度は入朝した際、穆宗に「承偕を処刑して悟の心を安んじるべき」と進言し、穆宗は流罪にとどめることとし、悟は承偕を釈放して謝恩した。

裴度と元稹の党争

武寧の内紛や崔植・杜元穎の相次ぐ罷免のなか、元稹が同平章事となり裴度を淮南へ遠ざけようとするが世論の反対で阻まれた。かわって李逢吉が兵部尚書として台頭し、謀略で裴度・元稹をともに失脚させ、自ら宰相の地位を得た(李賞による讒訴事件)。

汴州の反乱鎮定

宣武節度使李願の寵臣竇瑷の専横から牙将李臣則が反乱を起こし、留後李㝏が擁立された。李逢吉は河北の前例を繰り返さぬよう主張し、韓充を宣武節度使に送って討伐、内部離反もあって李㝏は誅殺され、韓充が軍政を立て直した。

穆宗の病と皇太子冊立

穆宗は狩猟や擊球に興じるうち落馬の危機で中風を発し、政務が滞った。裴度らの進言で長子・景王湛が皇太子に立てられた。翌年、牛僧孺が宰相となる一方、李徳裕は不満を抱き、これが牛李の党争の始まりとなった。李逢吉は宦官王守澄と結んで裴度をさらに退け、韓愈・李紳への讒言工作も行ったが、韓愈と李紳はのちに冤を雪がれた。

穆宗崩御と敬宗即位

穆宗は父憲宗同様に丹薬を服用し続けて体を損ない、三十歳で崩御(在位四年)。皇太子湛(十六歳)が即位し敬宗となる。臨朝を求める声に対し郭太后は武氏の故事を戒めに毅然と退け、外戚も慎み深く従った。宮中の女官宋若昭は学識高く「女学士」として歴代皇帝に重んじられた人物として付記される。

敬宗の放埒と宦官政治

敬宗は即位早々から擊球や蹴鞠に耽り、朝見は遅々として進まず、劉棲楚の諫言も李逢吉の差し金による見せかけの忠諫にすぎなかった。李逢吉は「八関十六子」と呼ばれる党与を築いて賄賂による取次を牛耳り、李紳への讒言を重ねたが、韋処厚らの弁護で最終的に冤罪は晴れた。

韓愈の死

韓愈はこの頃病没し、礼部尚書を追贈され諡は文とされた。生涯の事跡と柳宗元との文名の並び立つさまが略述される。

張韶・蘇玄明の乱

占い師蘇玄明と染物職人張韶が、荒唐無稽な予言をきっかけに無頼百余人を集めて宮中に乱入し、清思殿の玉座に上るという奇怪な事件が起きた。敬宗は左神策軍営に逃れ、康藝全らの討伐で反乱はその日のうちに鎮圧され、張韶・蘇玄明も討ち取られた。しかし敬宗はその後も遊興を改めなかった(詩:宮禁の乱入を許した緩みを嘆く趣旨。原文の当該箇所は判読不能な字が含まれるため趣旨のみ示す)。

続きの敬宗への諫言は次回に語られる。

評語

穆宗・敬宗の二代は藩鎮の乱がなお収まらぬところへ朋党の禍が重なり、内外相攻めて唐室はいよいよ危うくなった。穆宗の遊興も甚だしかったが敬宗はさらに度を越し、政務は乱脈を極め、唐が滅びなかったのは僅かなことであった。郭太后が臨朝の勧めを毅然と退け武韋の轍を踏まなかったことは宮闱における一つの救いだったが、敬宗は幼く暗愚で遊猟に節度がなく、宰相李逢吉も党与を組んで権をほしいままにし匡正しなかった。無頼の職人百余人が禁中に斬り込み無人の境を行くがごとくであった事実そのものが、朝廷にもはや君臣の実がなかったことを物語っている。張韶・蘇玄明の愚行など論じるに足りない。