唐史演義敬宗を蠱し逆閹逆を肆にす/劉蕡を屈し名士名を埋む(第八 十回 盅敬宗逆閹肆逆  屈劉蕡名士埋名)

韋処厚の直諫

翰林学士の韋処厚は、敬宗が父穆宗の轍を踏んで酒色に耽るのを見て、面と向かって諫言した。敬宗はこれを褒め、錦や銀器を賜った。程なく吏部侍郎李程・戸部侍郎竇易直が宰相に列した。成徳節度使王庭湊が深州の牛元翼の遺族を皆殺しにすると、敬宗は自らの用相の不明を嘆き、韋処厚の推薦で裴度を同平章事に任じたが、朝廷へは召還しなかった。宦官李文徳の謀反が未然に発覚し誅されたが、敬宗は依然宦官を寵用し、危機感を持たなかった。

敬宗の放埒と崔発事件

改元して宝暦元年、敬宗は南郊祭祀後の恩赦の場で、以前中使を叱った鄠県の令・崔発だけを赦さず、中官たちに乱打させて瀕死の目に遭わせた。諫官の諫めも聞かず、李逢吉が崔発の老母を持ち出してようやく釈放させた。牛僧孺は諫言を憚り、自ら外任を求めて武昌軍節度使となった。

李徳裕の六箴と讒言

浙西観察使李徳裕は、敬宗の乱れた政治を憂い「丹扆六箴」を献じたが、聞き流された。競渡見物のための龍舟建造など浪費も続いた。裴度が入朝して忠言を尽くそうとすると、李逢吉一派は「緋衣小児」の讖を捏造し、裴度の邸宅の位置まで持ち出して謀反の疑いを着せようとしたが、韋処厚の弁護で失敗した。

劉従諫の襲位と武昭の讒言事件

昭義節度使劉悟の死後、子の従諫が偽の遺表で留後を求め、司馬賈直言に叱責されつつも、結局李逢吉・王守澄の後押しで節度使に任じられた。宰相李程の一族・仍叔と、裴度配下だった武昭との酒席の愚痴話が発端となり、李逢吉一派が武昭・茅匯らを陥れようとしたが、茅匯が李仲言(後の李訓)による誘導を暴露し、逆に李仲言も連座して流罪となった。裴度・李程には累が及ばなかった。

李絳の憂死と裴度の復権

左僕射李絳は敬宗の温泉行幸を諫めたが聞かれず、失望して致仕を願い出た。裴度は司空・同平章事に進み、李逢吉は焦って裴度を讒言したが失敗した。裴度が印を紛失したとの騒ぎでも動じず落ち着いて対処した逸話が語られる。裴度は東都巡幸を諫止し、盧龍節度使朱克融の不遜な要求に対しても詔書一枚で自ら折れさせるなど、的確に対処した。李程・李逢吉はやがて外任に出された。

敬宗、弑逆される

敬宗は早朝を怠らぬよう裴度に勧められても遊興を改めず、力士を集めて撃球や夜間の狩り(打夜狐)に興じ、気に入らない者には過酷な処罰を加えた。ある夜、酒宴の最中に室内が急に暗くなり、敬宗の叫び声が聞こえたのち、宦官の劉克明・蘇佐明らが「大事已了」と口にした。彼らは偽の詔を作り、翰林学士路隋を欺いて絳王李悟(憲宗の子)を擁立しようとした。

文宗の即位

翌朝、劉克明らが偽の遺詔を宣し絳王を擁立しようとしたが、裴度は表向き従うふりをしつつ密かに中尉梁守謙と結び、討逆を決意した。梁守謙・王守澄らは禁軍を発して劉克明一派を誅殺し、絳王も乱軍の中で命を落とした。生き残った江王李涵(憲宗孫)が擁立され、翰林学士韋処厚の進言に従って正式な手続きを踏んで即位、文宗となった。敬宗はわずか十八歳、在位二年で非業の死を遂げた。

文宗の治世と朋党の萌芽

文宗は生母蕭氏を皇太后とし、祖母郭氏(太皇太后)・敬宗生母王氏(宝暦太后)とあわせ三宮太后を敬った。倹約や整理統合に努め、韋処厚を宰相に任じて政務に励んだが、決断力に欠け、一度決めた政策が覆ることも多かった。改元して太和元年、韋処厚は文宗の優柔を懸念して辞意を示すが慰留された。淮南節度使王播が賄賂により復相するなど、小人の進出も始まった。

劉蕡の直言策文

太和二年、賢良方正の科挙で文宗自ら策問を行った際、進士劉蕡は宦官の専横を痛烈に批判する長大な策文を提出した。宮廷の乱の兆し、太子未立の危うさ、藩鎮の跋扈、軍政と宦官の結託などを歴史を引きながら論じ、君主が権を臣下に委ね正道を失えば国が傾くと直言した。試官たちは感嘆したが、王守澄ら宦官を憚って劉蕡を落第させた。同科の李郃・裴休・杜牧・崔慎由らは連名で自分たちの及第を劉蕡に譲りたいと上疏したが容れられず、劉蕡は後年、牛僧孺の幕僚となった末、宦官に誣告されて左遷され失意のうちに終わった。

評語

敬宗は暴虐な君主ではなく、裴度・李絳・韋処厚ら忠臣の器量も見抜いていたが、遊興と佞幸への耽溺によって宦官に弑逆される羽目になった。三朝の元老たる裴度でさえ討逆を宦官の手に頼らざるを得なかったことに、唐末の宦官専横の深刻さが表れている。文宗は治世を志しながらも家奴(宦官)に制せられ、劉蕡のような人材を用いる勇気を持てなかった。これでは天下の治安は望めない。