唐史演義第八十一回 叛帥を誅し朝使功を争う/相臣を誣い天潢罪に坐す (誅叛帥朝使爭功 誣相臣天潢坐罪)
韋処厚の死と横海の乱の背景
太和二年冬、宰相韋処厚は横海の乱への対応で心労が重なり、朝議中に急死した。竇易直も罷免され、路隋が同平章事となった。横海軍(滄・景・徳・棣四州)は李全略の死後、子の李同捷が朝命に従わず留後を自称し、諸鎮に賄賂を配って援助を求めた。盧龍の李載義は同捷の使者を捕らえて朝廷に献じたが、魏博の史憲誠は密かに同捷を助けようとし、韋処厚の説得でようやく手を引いた。成徳の王庭湊も同捷に兵糧を送った。
李同捷討伐
武寧の王智興、平盧の康志睦らが討伐を志願し、文宗は烏重胤・康志睦・李載義・史憲誠に義成の李聴、義武の張璠を加えて同捷を討たせた。烏重胤は出征途上で病没し、代わって李寰が任じられたが軍紀は乱れた。王智興・康志睦は戦果を挙げ、史憲誠の子の史唐も奮戦した。王庭湊は沙陀の朱邪執宜を誘おうとしたが拒まれた。李祐・李聴らの攻撃で滄州は陥落寸前に追い込まれた。
柏耆の暴挙と同捷の最期
李同捷が降伏を申し出ると、朝廷は諫議大夫柏耆を派遣した。柏耆は李祐配下の万洪を独断で斬殺し、同捷とその一族を連行する途中、王庭湊軍による奪還を恐れて同捷を斬首してしまった。諸将は柏耆の専横に憤り、文宗も事態を重く見て柏耆を流罪とし、のちに死を賜った。李祐も陣中で病に倒れて没した。殷侑が横海節度使となり善政を敷いて地域を再建した。
史憲誠の死と魏博の内訌
史憲誠は子の史孝章を通じて朝廷に帰順を申し出たが、将士の不満が爆発して憲誠は殺され、何進滔が留後に推された。進滔は乱の首謀者を処罰して憲誠を丁重に弔い、朝廷から魏博節度使に任じられた。救援に向かった李聴は進滔に大敗し、御史中丞温造の弾劾を受けたが、文宗は寛大に処分した。王庭湊も同捷の滅亡を見て謝罪し、河朔はひとまず鎮静した。
李徳裕・牛僧孺の党争と南詔問題
裴度の推薦で李徳裕が朝廷に召されたが、牛僧孺・李宗閔一派が結託して排斥し、徳裕は義成軍、次いで南詔防備のため西川に転出させられた。南詔では嵯巓が西川節度使杜元穎の失政に乗じて雟・戎二州を奪い成都に迫った。文宗は杜元穎を左遷し郭釗を後任としたが、和議はなったものの牛李両相はさらに徳裕を西川へ遠ざけた。徳裕は籌辺楼を築いて山川地理を精査し、辺防を固めて蜀を安定させた。
李絳の憂死
南詔来襲時に援軍を募った李絳(山南西道節度使)は、乱後に新軍を解散させたが、監軍楊叔元の煽動で新軍が暴発し、絳と部下の趙存約らが殺害された。文宗は絳を追贈し、温造を後任に派遣。温造は興元で謀略を用いて反乱軍を一挙に誅殺し、楊叔元も流罪とした。
楊志誠の乱と宋申錫の冤獄
盧龍で副兵馬使楊志誠が節度使李載義を追放する事件が起き、朝廷は牛僧孺の献策により志誠を留後として追認、載義を他へ転任させた。裴度も辞意を重ね山南東道へ転出、代わって宋申錫が抜擢された。宋申錫は宦官排除を志し、京兆尹王璠に密議を託したが、王璠がこれを鄭注に漏らした。鄭注は元は医術で身を立てた策士で、王守澄の腹心として権勢を振るっていた。鄭注は「宋申錫が漳王李湊を擁立しようとしている」と讒言させ、王守澄が文宗に密告。文宗は動揺し、宋申錫の一族を誅殺しようとしたが、宦官馬存亮の諫めで大量誅殺は免れたものの、宋申錫は開州司馬に、漳王は巣県公に落とされ、関係者は処刑された。宋申錫はほどなく配所で病没し、漳王も間もなく世を去った。のちに王守澄・鄭注が誅されてから、宋申錫の官爵は回復され、漳王も追封された。
評語
横海の乱は朝廷が姑息な対応を重ねた結果、柏耆のような無能な使者に功を横取りさせる愚を招いた。成徳・盧龍もまた乱を乱で治めるに等しい処置が続き、李絳の非業の死も監軍の禍によるもので、責任を負うべき楊叔元がなお生き延びたのは理不尽である。宋申錫の失脚は自らの不用意にも一因があるが、無実の漳王まで連座させたのは、文宗が宦官を除こうとしながら逆にその讒言に踊らされた結果であり、慨嘆に堪えない。