唐史演義第七十八回 河朔再乱し節使戕せらる/深州囲を撤し侍郎命を申ぶ (河朔再亂節使遭戕 深州撤圍侍郎申命)

王承元の忠節

成德節度使王承宗が病没すると、子は年少で人質のまま京師にあり、軍中は弟の王承元を推した。承元は二十歳ながら朝廷への忠節を誓い、留後を名乗らず密かに朝廷に節帥の任命を求めた。田弘正が成徳節度使に任じられ承元は義成に転じることになると、将士は承元の留任を望んで泣訴したが、承元は李師道の末路を引いて将士を諭し、なお強諫する大将李寂ら十数人を斬って軍を鎮め、赴任した。成徳鎮は李宝臣以来五代五十九年でここに一つの区切りを迎えた。

劉総の出家と最期

盧龍節度使劉総は、かつて父兄を弑して地位を得た負い目から幻覚に苦しみ続け、出家を願って所領を三道に分け朝廷に献じ、旧部将朱克融らを京師に送って辞任した。しかし詔命を待つ間に印綬を留後張玘に託して出奔し、後に定州で遺骸となって発見された。盧龍鎮は劉怦以来三代三十六年で絶えた。

幽州の変と朱克融の擁立

盧龍の後任張弘靖は驕慢で軍務を判官韋雍らに委ね、韋雍らは軍士を侮辱し不満を募らせた。折しも冷遇されていた朱克融が兵変を主導、韋雍ら幕僚を殺害し張弘靖を監禁した。軍は克融の父朱洄を経て朱克融を留後に推戴した。穆宗は張弘靖を左遷し劉悟を盧龍節度使に充てようとしたが、悟は固辞し赴任しなかった。

王庭湊の乱と田弘正の死

成徳では兵馬使王庭湊が節度使田弘正を殺害して留後を自称した。田弘正は旧怨を恐れ魏博兵二千を自衛に留めていたが、糧秣を得られず引き上げさせた矢先の惨事だった。魏博に転じていた李愬は将士を励まし復讐を誓わせ、深州刺史牛元翼に宝剣を贈って支援したが、自身は病に倒れ東都で没した(四十九歳)。後任には田弘正の子・田布が起用されたが、軍心はまとまらず、事態は好転しなかった。

裴度の派遣と元稹の妨害

朝廷は裴度を鎮州四面行営都招討使に任じたが、翰林学士元稹が魏弘簡と結んで功を妬み、裴度の献策を阻んだ。裴度は上疏して「朝廷内の奸臣を除かねば河朔の乱は治まらない」と痛論したが黙殺され、元稹は左遷されても実質は厚遇されたままだった。橫海節度使烏重胤の慎重な用兵も中官の讒言で退けられ、代わった杜叔良は大敗し、事態はさらに悪化した。国庫窮乏の中、朝廷は妥協して朱克融の罪を赦し、庭湊のみを討つ方針に転じた。白居易も上書して兵力の集中と将帥の統一指揮を訴えたが、聞き入れられなかった。

田布の自刃

魏博でも軍が乱れ、田布は将士の離反に絶望し、遺表を残して自刃した(三十八歳)。副将史憲誠がそのまま節度使の地位を得て、表向き朝廷に従いつつ内実は幽鎮と通じた。

韓愈の使節と河朔三鎮の独立

王庭湊の勢いはなお衰えず、裴度も元稹の妨害で東都留守に退けられた。朝廷は韓愈を鎮州に派遣して庭湊を説得させる。韓愈は甲兵に囲まれても動ぜず、叛逆した者の子孫の末路を説いて庭湊とその兵を屈服させ、深州の包囲を解かせ牛元翼の脱出を実現した。しかし成徳・盧龍・魏博の河朔三鎮はいずれも朝命に服さぬ独立状態となり、唐は事実上この地を失った(詩:君主の放縦と臣下の暗愚が招いた河朔喪失を嘆く趣旨)。

続きの昭義軍の動乱は次回に語られる。

評語

王承元の転鎮で成徳が安んじ、劉総の出家で盧龍が安んじ、田弘正の魏博も朝旨を守っていれば、河朔の乱はほぼ収まるはずだった。それを朝廷自ら刺激して事変を招いたのは何故か。田弘正を成徳に軽々しく転じ、張弘靖を無策のまま赴任させ、さらに田布を起復させて再び禍を招いたのは、いずれも唐廷の処置の誤りに帰する。裴度・李光顔のような一流の人材が奸臣・宦官に牽制されて功を成せず、天下の兵を集めながら二賊を平らげられず、逆に節鉞を与えてしまったことに、乱臣賊子が朝廷を畏れなくなった理由がある。韓愈の鎮州説得は理があり言も壮んで賊の勢いを一時挫いたが、牛元翼一人を救うにとどまり、国威の失墜を挽回するには至らなかった。唐はここに至って衰亡の色を深めた。