唐史演義成徳を討ち中使功無し/魏博を策し名相議を定む(74 第七十三回 討成德中使無功 策魏博名相定議)
成德・王承宗を巡る議論
- 王承宗の自立は先例(李師道の平盧継承など)に倣ったものと位置づけられる。裴垍は「李師道の父は跋扈したのに継承を許し、王承宗の祖は功臣だったのに討とうとするのは筋が通らない」と諫め、李絳も河北諸鎮の連鎖反応や財政難を理由に討伐に慎重論を唱える。憲宗も一時これに傾くが、宦官・吐突承璀が強硬に出兵を主張し、昭義節度使盧従史も承璀に取り入って参戦を申し出る。
- 王承宗は恭順を示し徳州・棣州の献上を申し出て、いったん成德節度使として認められるが、まもなく薛昌朝(新任の徳棣観察使)を拘禁する挙に出て再び討伐の対象となる。
呉突承璀の出兵と河北諸将の駆け引き
- 吐突承璀が神策河中東道行営兵馬使・招討処置使として北伐に赴く。翰林学士白居易は「中使を統帥にするのは前代未聞、天下と四夷の笑い物になる」と痛烈に諫めるが容れられず、削権のうえ宣慰使に改称されるにとどまる。
- 魏博節度使田季安は出兵に消極的で、幽州からの使者・譚忠の策(趙を助けず魏の利益を図る「鷸蚌の計」)を用いて事態を静観する。幽州の劉済も譚忠の進言で出兵に転じ、饒陽・束鹿を落とす。
- 官軍は統率が乱れ、酈定進が王承宗の伏兵に敗死するなど苦戦。盧従史は内通が発覚し、裴垍の策で烏重胤・王翊元の内応を得て捕縛され、歓州司馬に落とされる。
昭義の後任人事と李絳の諫言
- 吐突承璀が烏重胤を独断で昭義留後としようとするが、李絳は「宦官の専断は諸鎮の信を失う」と諫め、烏重胤を河陽節度使、孟元陽を昭義節度使とする穏当な人事に落ち着く。
- 王承宗は范希朝・張茂昭軍に圧されて謝罪し、成德節度使として本官に復帰。呉突承璀は帰朝後も冷遇されず一時中尉に復すが、裴垍・李絳らの弾劾でようやく更迭される。
幽州・劉済の横死と劉総の簒奪
- 劉濟の子・劉総が判官張圯と共謀し、偽の使者による情報操作で父を疑心暗鬼に陥らせ、毒殺。長子の劉緄も自尽に追い込まれる。劉総は病死と偽って留後を継ぎ、憲宗はこれを見抜けず節度使に任じ楚国公にまで封じた。
張茂昭の帰朝と人材登用
- 張茂昭は一族を率いて朝廷に帰参し、後任に任迪簡を推薦。子孫が俗習に染まることを案じた見識ある言動が語られる。以後まもなく病没(享年50)。
- 河東節度使に王鍔を望む声があり、賄賂による宰相兼任工作を李藩・権徳輿が阻止する逸話。裴垍は病により罷免され、李吉甫が再登用されるが、旧怨から史官粛清や李藩排斥など陰険な動きを見せる。
魏博の田興擁立
- 李絳が吐突承璀の専横を諫めた縁で承璀は一時淮南監軍に左遷、李絳が同平章事となる。
- 魏博節度使田季安の死後、幼い田懐諫に代わり田興(田弘正)が兵馬使から留後に推される。李吉甫は出兵を主張するが、李絳は「魏博は自ら帰順する」と説き対立。結果は李絳の見立て通り、魏博軍は田興を留後に推し、憲宗が用兵を思いとどまる。
評語
- 憲宗の藩鎮対応が寛厳一定せず、李師道は加封され王承宗は討伐されるなど道理に合わないと批判。宦官を統帥に用いた失策、盧従史捕縛の功が裴垍にあるのに承璀に帰せられかけたこと、呉少陽・劉総のような弑逆の徒がかえって重用された不条理を指摘し、李絳の建言がなければ魏博でも同様の失策を繰り返したであろうと結ぶ。