唐史演義劉辟を擒え西川を戡定す/李錡を執え鎮海を蕩平す(73 第七十二回 擒劉辟戡定西川  執李錡蕩平鎮海)

順宗の崩御と劉辟の反乱

  • 永貞から元和に改元。順宗が半年で崩御(享年46)。憲宗は服喪の中、劉辟の反乱に対処せねばならなくなる。
  • 劉辟は韋皋の後任を望むが許されず、兵を擁して抵抗。袁滋の説得も功を奏さず、韋丹を東川節度使にあてて牽制するが、劉辟はさらに三川の兼領を求め、拒まれると梓州を攻める。推官林蘊は捕らえられ脅されても屈しなかった逸話が語られる。

高崇文の蜀平定

  • 東川では李康が梓州で防戦するが失陥。杜黄裳は高崇文の起用を進言し、監軍を置かない条件で憲宗が同意。高崇文は厳正な軍紀のもとで進軍し、劉辟軍を各地で撃破、梓州を奪回。李康は劉辟に内通した疑いで斬られる。
  • 並行して夏綏でも韓全義の甥・楊惠琳が反乱を起こすが河東節度使厳綬の派兵で鎮圧される。
  • 高崇文はさらに鹿頭関の要害を、万勝堆の奇襲によって陥落させ、連戦連勝で成都に迫る。劉辟は吐蕃への逃亡を図るが捕らえられ、京師に送られて処刑される。高崇文は投降者を厚遇し、婦女の献上も拒むなど清廉な統治を行い、蜀は平定された。

論功行賞と杜佑・杜黄裳

  • 高崇文は西川節度使、厳礪は東川節度使に任じられる。杜佑は高齢を理由に退き、司徒・岐国公として遇される(後に78歳で没)。杜黄裳は河中節度使に転じ、まもなく没する(70歳)。

李錡の反乱と鎮圧

  • 李吉甫が中書侍郎として登用される。浙西観察使李錡は権勢を恃み、鹽鐵転運使の権を失った後も不穏な動きを見せ、入朝を求められても引き延ばしを重ね、ついに挙兵。腹心を各州に配して刺史を殺害させるなど反乱を拡大する。
  • 常州刺史顔防や湖州刺史辛秘らが機転で反乱軍の将を討ち取り抵抗。朝廷は王鍔を招討処置使として諸道の兵を動員する。李錡配下の張子良・裴行立らが内応し、李錡を捕らえて京師に送る。李錡は責任を部下に押し付けようとするが認められず、子とともに腰斬に処される。憲宗は連座の範囲を限定し、宗族の存続には配慮した処置をとった。没収財産は浙西の百姓の租税に充てられた。

高崇文の転任と人材登用

  • 高崇文は西川での安逸を厭い辺境への転任を願い出て邠寧節度使となるがまもなく没する。憲宗は制挙で元稹・白居易ら人材を登用。李吉甫と裴垍の間で科挙採点を巡る争いがあり、裴垍が公正な人物として評価される逸話が語られる。
  • 元和四年の大旱に際し、李絳・白居易の進言により減税・宮女解放・横斂の禁止・良人の奴婢化禁止などが実施される。

成德の王承宗擁立と対応の分岐

  • 成德節度使王士貞の死去に伴い子の承宗が留後を自称。憲宗は討伐か懐柔かで宰相裴垍・李絳と宦官吐突承璀の間で意見が割れる。

評語

  • 藩鎮が軍士の擁立で世襲化する弊は肅宗・代宗以来の積弊であり、劉辟・李錡のような驕った者が次々に反乱を起こしたが、杜黄裳・武元衡の的確な献策によって鎮圧されたと評す。高崇文の前に劉辟は児戯に等しく敗れ、李錡も部下の離反で瓦解した様を「盗んで権を弄する者の無自覚」と批判し、楊惠琳の反乱は取るに足らぬものとして簡略に扱ったと述べる。