唐史演義王叔文、君を得て寵を怙む/韋執誼、党に坐し官を貶せらる(72 第七十一回 王叔文得君怙寵 韋執誼坐黨貶官)
藩鎮の交代と朝廷の姑息
- 成德節度使王武俊が没し子の士貞が後を継ぐなど、各鎮で世襲的な交代が続く。徳宗は姑息な統治に終始し、宰相人事も凡庸な人物ばかりが登用される(崔損、高郢、鄭珣瑜ら)。
- 太学生薛約の一件に連座して陽城が道州刺史に左遷されるが、清廉な統治で名声を高める。京兆尹李実の苛政を諫めた韓愈も左遷され、朝政の乱れが目立つ。
王叔文・王伾と太子誦
- 太子誦(のちの順宗)に仕える王伾・王叔文が信頼を得る。王叔文は太子に「外事に口出しすべきでない」と説きつつ、実際には人事に介入し腹心(韋執誼・柳宗元・劉禹錫ら)を要職に配していく。左補闕張正一が上書すると、王叔文は韋執誼を使嗾して弾劾し左遷させるなど、朋党的な動きを強める。
- 貞元二十一年、太子誦が中風で発語不能となる。徳宗の病状も悪化し、宮廷は疑心暗鬼に陥る。
徳宗の崩御と順宗の即位
- 徳宗が危篤となり、翰林学士鄭絪・衛次公が遺詔を起草。宦官の異論を退け、太子誦(順宗)が即位する。徳宗在位26年、享年64。
- 順宗は発語不能のまま政務を執れず、宦官の李忠言と寵妃・牛昭容を介して意思を伝える体制となり、その裁決の多くは翰林院の王叔文・王伾が実質的に握る。王叔文は韋執誼を宰相に押し上げ、党人らは要職を占めていく。
- 一方で杜佑を冢宰格に、進奉・宮市・五坊小児の廃止、陸贄・陽城の召還、李実の左遷などの善政も打ち出されたが、陸贄・陽城は召還前に病没した。
王叔文一派の専横と反発
- 侍御史竇群が王叔文に「自重すべき」と忠告するが聞き入れられず、群は劉禹錫らを弾劾しようとするも執誼に阻まれる。御史中丞武元衡も王叔文の誘いを拒み左遷される。王叔文・王伾のもとには連日賄賂を求める者が群がり、特に王伾は蓄財に貪欲だったと評される。
- 宦官の俱文珍らは順宗の病状長期化を見て立太子を進言。翰林学士鄭絪の主導で広陵王淳(憲宗)が太子に立てられる。王叔文はこれに動揺を隠せなかった。
韋執誼との軋轢と権力基盤の動揺
- 宰相間で王叔文の専横に対する反発が広がり、杜佑・高郢・鄭珣瑜らが距離を置く。韋執誼の岳父・杜黄裳は太子監国を勧め、韋執誼に翻意を促す。
- 王叔文は宦官抑制のため范希朝・韓泰を用いて西北諸軍の掌握を図るが、宦官俱文珍らの先回りで諸鎮の協力が得られず失敗。さらに翰林院の職務からも外され焦燥を深める。
- 羊士諤の弾劾や劉辟の要求を巡っても韋執誼と対立が深まり、王叔文の母の死去による丁憂で権力基盤が崩れていく。復職を図るも支持が得られず、王伾も焦って画策するが功を奏さなかった。
順宗の禅位と憲宗の即位
- 西川節度使韋皋、荊南節度使裴均、河東節度使厳綬らが相次いで太子監国を上奏。順宗はついに太子純(憲宗)への監国を許し、杜黄裳・袁滋を宰相に、鄭珣瑜・高郢は他職に転じさせる。
- 半月後、順宗は禅位して太上皇となり、永貞と改元。太子純が即位(憲宗)。憲宗は献上された女伎や瑞祥の品を退け、清明な政治を志向する姿勢を示す。
韋皋の生涯
- 剛毅な人物として知られた韋皋の若き日の逸話(張延賞の娘婿となった経緯、苗夫人の眼力、七駄の贈り物を返した清廉さ、後年に張延賞の後任として西川に赴任した因縁)が語られる。西川を21年鎮め、南詔・吐蕃に威を示した功績とともに、憲宗即位直後に病没したことが記される。
王叔文一派の処断
- 支度副使劉辟が西川留後を自称し騒動を起こす。憲宗は袁滋を安撫大使に派遣する一方、王叔文一派を次々に左遷(韓泰・韓曄・柳宗元・劉禹錫・陳諫・凌准・程異ら、いわゆる八司馬)。韋執誼も崖州司馬に落とされ、王叔文は自尽を命じられる。王伾・韋執誼・凌准も相次いで憂死した。
評語
- 王叔文は無頼の徒ではなく、進奉・宮市などの弊政を改めようとした志は評価できるが、力量が伴わず誇大に過ぎたと評す。韋執誼は叔文に付いて叔文を裏切り、結局共倒れとなった。この一件を機に宦官と藩鎮が交互に権勢を振るう晩唐の禍根が開かれたと嘆く。順宗・憲宗をともに英明と称える史書もあるが、本回を読めば安易には信じ難いと結ぶ。