唐史演義陸敬輿、奸を斥け旨に忤う/韓全義、敗を掩い功と為す(71 第七 十回 陸敬輿斥奸忤旨  韓全義掩敗為功)

李泌の諫言と死

  • 李泌は老いを理由に辞職を願うが、徳宗は許さず宰相の交代候補を求める。李泌は「天下に人材が無いのではなく、陛下が人選に留意されないだけ」と説く。
  • 徳宗が盧杞について「奸邪と言われるが自分にはわからない」と漏らすと、李泌は建中の乱は盧杞が楊炎を殺し顔真卿を死地に送り李懐光を反乱に追い込んだ結果だと指弾し、天命論に頼る君主の危うさも説く。
  • 李泌は戸部侍郎竇参・尚書左丞董晋を後任に推薦するが、徳宗は内心納得していなかった。
  • 李泌は集賢殿崇文館大学士を兼ね国史編纂にあたるが、貞元年間のある年、月食を見て「東壁の月食は大臣に災いが及ぶ前兆、張説の先例もある」と自ら死を予感し、翌年病没した。
  • 李泌は7歳で玄宗に才を認められた神童で、張説・張九齢に評価された逸話が語られる。晩年は神仙談を好み世に譏られたが、概ね賢相と評される。享年68。

竇参の専権と失脚

  • 竇参・董晋が宰相となる。竇参は峻烈で権謀に長け、親族を要職に配し耳目とした。董晋は無難に自守するのみで、いずれも真の宰相の器ではないと評される。李泌がなぜこの二人を推したのか疑問が残る。
  • 陸贄は竇参に疎まれ兵部侍郎に転じさせられる。竇参は福建観察使呉湊を誣告して排斥しようとしたが、徳宗が呉湊を召見して健康と判明し、竇参の陰謀が露見。
  • 竇参は一族の竇申を給事中に取り立て収賄を働かせ「喜鵲」と綽名された。徳宗が竇参を戒めても聞き入れず、さらに陸贄を陥れようと諫議大夫呉通元兄弟と結んで讒言の書を作るが発覚し、呉通元は死を賜り、竇申は左遷、竇参も郴州別駕に落とされる。
  • 陸贄が中書侍郎、趙憬とともに同平章事となる。度支の後任に李巽を望むも、徳宗は裴延齢を戸部侍郎・判度支に任じ、陸贄の反対は容れられなかった。

竇参の死と裴延齢の専横

  • 貞元九年、竇参が劉士寧から絹を受け取ったことが発覚し、徳宗は激怒するが、陸贄は「劉晏の冤死の二の舞は避けるべき」と諫め、竇参は驩州司馬に落とされた末、自尽を命じられ、竇申は杖殺、一族は流罪となった。董晋も辞職を願い、賈耽・盧邁が加わり四人体制で政務を分掌するが、互いに責任を押し付け合い機能しなかった。陸贄は辺防の失策六か条など数十万言の意見書を上奏したが実行されなかった。
  • 裴延齢は虚偽の報告(同州の巨木、糞土中の銀)で徳宗に取り入り、韋少華らの弾劾も無視される。陸贄は上疏して裴延齢を「堯代の共工、魯の少正卯」になぞらえ痛烈に批判するが、逆に徳宗の怒りを買い、太子賓客に左遷される。さらに旱魃を口実に陸贄・李充・張滂・李銛らが謡言を煽ったとして地方官に貶される。

陽城の直諫

  • 隠者の陽城は李泌の推挙で諫議大夫となったが、当初は酒に耽り諫言しなかった。韓愈にも「争臣論」で批判される。だが陸贄らが理不尽に貶されると奮起し、上書して裴延齡の奸佞と陸贄らの無罪を訴える。金吾将軍張万福が「朝廷に直臣あり、天下太平」と称賛し、陽城は名声を得た。
  • 裴延齢が宰相に擬せられると聞き、陽城は「白麻を破り捨ててでも阻止する」と述べ、弾劾の草稿を作るが、代筆した李泌の子・李繁が裴延齡に密告し失敗、陽城は国子司業に左遷される。裴延齢は後に戸部尚書となるが間もなく病没、世は快哉を叫んだが徳宗のみ悼んだ。裴延齢の推した崔損が凡庸なまま宰相を務め続ける。

藩鎮の交代と宣武軍の内乱

  • 李晟・馬燧ら重臣が相次いで死去し、各鎮は子や部将が世襲的に後任となる流れが続く。魏博節度使田緒の死後、庶子の田季安が留後となる。
  • 宣武軍では劉士寧が淫虐で追放され、後任の李万栄も病死、部下の内紛を経て董晋が節度使として赴任し、陸長源を行軍司馬に付ける。董晋は寛容と警戒を併用して内乱を鎮めるが、董晋の死後に厳格な陸長源が反発を招き殺害される。監軍の俱文珍が劉逸准(のち全諒と改名)を招いて事態を収拾するが全諒も間もなく死去、韓弘が留後となり反乱首謀者を処断して軍紀を立て直した。

淮西・呉少誠の反乱と韓全義の敗戦

  • 淮西節度使呉少誠が反乱を起こし壽州・唐州を攻める。陳許の劉昌裔が寡兵で城を守り抜き、少誠軍を撃退する。
  • 徳宗は諸道に討伐を命じるが、統帥の乱れから官軍は小溵水で自壊、器械物資を失う。西川節度使韋皋は上奏し、渾瑊・賈耽らの起用か、少誠への恩赦か、いずれかを説くが徳宗は逡巡。渾瑊の死去も重なる中、宦官竇文瑒に取り入った韓全義が蔡州招討使に任じられるが、実力不足に加え宦官監軍の介入で軍令が乱れ、溵水で大敗する。韓全義は敗戦の責任を部下に押し付け処刑するなど専横を極めるが、少誠が和議を求めたため官軍は撤退、韓全義はほとんど処罰されず帰郷を許された。

評語

  • 裴延齢のような浅薄な佞臣を徳宗が深く信任した背景には天性の猜疑心があったのではと論じる。陽城の名声は皮肉にも裴延齢によって作られたとし、悪人を好み善人を厭う徳宗の姿勢を批判。韓全義の溵水の敗戦の責を問わず、なお宦官に統率を委ねた徳宗の姿勢に嘆息する。