唐史演義第五十七回 上皇を遷し閹寺権を擅にす/少子を寵し逆胡禍を速む (遷上皇閹寺擅權 寵少子逆胡速禍)
懷州攻略と上皇の憂愁
李光弼は懷州を攻め、史思明の援軍を撃退した後に懷州を陥落させ、安太清を捕らえる。肅宗は上皇を迎えて宴を催すが、上皇は楊貴妃らを偲び悲しみに沈み、途中で退席してしまう。
楊貴妃・梅妃をめぐる上皇の哀傷
上皇は蜀からの帰路、馬嵬で楊貴妃の墓に涙し、高力士に命じて密かに改葬させる。遺品の香嚢と靴を得て肖像を掲げ、日夜偲び続けた。さらに行方知れずの梅妃江采蘋を捜させ、夢で告げられた場所から遺骨を見つけ、妃の礼で葬った。
張皇后・李輔国による上皇幽閉
興王佋の死を機に張皇后は上皇を恨むようになり、李輔国と結んで讒言を重ねる。輔国は肅宗に「上皇周辺に不穏な動きがある」と告げ、興慶宮から大内(西内)への移徙を強行。高力士が抗議しつつも上皇を守り、上皇は寂しい甘露殿での幽居生活を強いられる。
上皇側近の粛清
顔真卿が上皇の安否を問うたことで讒訴され左遷。高力士は巫州へ流され、陳玄礼は致仕、如仙媛・玉真公主も追われた。以後、肅宗は上皇のもとへほとんど参じなくなる。
劉展の乱と江淮の混乱
淮西節度副使劉展が反乱を起こし江淮を席巻。監軍邢延恩の謀略は失敗し、劉展は広陵を占拠するが、平盧節度使田神功が討伐に向かい、最終的に劉展を討ち取る。ただし討伐軍自身も略奪を働き、江淮の民は二重に苦しんだ。
相州敗戦後の再度の敗北
魚朝恩の督促で李光弼はやむなく東京奪回を図るが、僕固懐恩が命令に反して平原に布陣したため史思明に敗れ、河陽・懷州を再び失う。
史朝義の危機と史思明弑逆
史思明は正妻辛氏の子・朝清を寵愛し、先妻の子である朝義を疎んじて廃嫡を図る。朝義は陝州攻めの失敗を口実に処刑されかけたところを、部将駱悦らに担がれて父・思明を殺害。朝義は即位し、続いて弟の朝清と生母辛氏も殺害させ、燕の内部抗争は朝義の勝利に終わる。
肅宗の乱脈な晩年
肅宗は道場を建てて祈祷にふけり、張皇后との間に生まれた娘を溺愛する一方、上皇への孝養は疎かなままだった。河東・絳州などで将兵の反乱が相次ぎ、郭子儀が汾陽王に封じられて鎮圧に当たる。上皇は西内で孤独と病に沈み、老いを嘆く詩を詠む。
次回予告
西方から方士が訪れ、上皇に楊貴妃の魂を探し出すと告げるところで筆が擱かれる。
評語
玄宗が子の妃であった楊貴妃を娶ったことが後の禍乱の端緒となり、肅宗もまた悍婦(張皇后)と権宦(李輔国)に制せられて身を修めることができなかった。身修まらず家斉わざれば国治まらず、というのが本回全体を貫く教訓である。安禄山・史思明の死がいずれも婦人がらみで起きたのも示唆的で、廃長立幼の争いが骨肉相食む禍を招くことを本回は物語っている。