唐史演義第五十八回 張后を弑し代宗位に即く/史賊を平げ蕃将功を立つ (弒張后代宗即位 平史賊蕃將立功)
方士楊通幽の招魂
方士楊通幽が上皇の前で術を用い、仙界にいる楊貴妃の魂と交信したと称し、金釵と鈿盒の片方を証拠として持ち帰る。貴妃は「世世夫婦たらん」との長生殿の誓いを語り、再会を約したと伝えられる。
玄宗(上皇)の崩御
以後、上皇は肉食を絶ち衰弱していき、崩御する。在位43年、蜀への滞在2年余、大内に戻って5年、享年78歳であった。後世「唐明皇」と呼ばれる。
李輔国のクーデターと肅宗の死
上皇崩御に肅宗も病篤くなる中、張皇后は李輔国の専横を恐れ、太子(豫)や越王系と結んで輔国排除を図るが、逆に李輔国・程元振に先手を打たれる。輔国は兵を率いて宮中に乱入し、張皇后を引きずり出して殺害、越王系・兗王僩らも殺す。肅宗はこの混乱のさなかに崩御した(在位7年、享年52)。
代宗の即位と李輔国の専横
太子豫が即位し代宗となる。李輔国は「大家は宮中に、外事は老奴が処分する」と豪語し、司空兼中書令にまで昇るが、代宗と程元振により最終的に暗殺され、王に封じられたまま「醜」の諡を贈られる。程元振もまた権勢を振るい、郭子儀は自ら副元帥・節度使の職を辞して身を退く。
雍王適の元帥就任と回紇の動揺
雍王適(後の徳宗)が天下兵馬元帥となり史朝義討伐に向かう。回紇は史朝義の偽りの誘いに応じかけるが、唐側の説得で思いとどまり、唐軍とともに史朝義を攻める。雍王が回紇可汗の前で拝舞を拒んだことから随員が鞭打たれる屈辱を受ける一幕もあった。
史朝義の敗走と滅亡
唐・回紇連合軍は東京を奪回し、史朝義は各地を転戦しながら敗走を重ねる。田承嗣ら賊将は次々と唐に投降し、朝義は最後に范陽・広陽でも入城を拒まれ、寄る辺なく毉巫閭祠で縊死した。史氏の僭号は4年で終わった。李懐仙・薛嵩・田承嗣・張忠志(李寶臣と改名)ら旧賊将はそのまま節度使に任じられ、後の藩鎮割拠の火種となった。
評語
張皇后には誅されるべき罪があったが、李輔国もまた張后を殺す資格のある者ではなかった。両者の争いは权臣と悍后の醜聞に過ぎない。代宗は輔国の専横を憎みながらも張后殺害の「功」に免じて厚遇し、後にひそかに暗殺させた。功罪を明らかにしないその姿勢が禍根を残した。史朝義討伐において回紇の力を借り親王を総帥に立てた判断も過剰であり、投降した賊将をそのまま重用したことが、以後の藩鎮の跋扈を招いたのである。