唐史演義梅悴え楊栄嬌を撒き閣に絮る/羅鉗吉網、党悪刑を濫す(48 梅悴楊榮撒嬌絮閣 羅鉗吉網黨惡濫刑)
楊玉環の入宮
高力士が召したのは、実は玄宗の子・寿王瑁の妃であった楊玉環(弘農の出、幼くして父を失い叔父に養われた)であった。玄宗は温泉宮で彼女と対面し、その美貌と音楽の才に魅了され、自ら作った霓裳羽衣曲を授けて情を交わした。翌日、金釵鈿合を贈って正式に契りを結び、楊氏には女道士となる体裁をとらせて「太真」の号を与え、宮中に留め置いた。壽王瑁には別に妃を立てさせている。
太真妃の寵愛と梅妃の凋落
太真は玄宗の寵を独占するようになり、次第に梅妃と反目するようになる。ついに太真は貴妃に冊立され、梅妃は上陽東宮に移された。楊氏一族も次々に栄達し、父・玄琰は追贈、叔父・従兄弟は高官に、姉妹も入京して厚遇された。かつて張易之の子であった楊釗(後の楊国忠)も楊家の縁者として台頭し始める。
楊釗(国忠)の出世
不遇であった楊釗は、剣南の鮮于仲通や章仇兼瓊の後ろ盾を得て蜀の産物を土産に長安の楊氏一族に取り入り、賭博の才が玄宗の目に留まって宮中に出入りするようになった。章仇兼瓊も戸部尚書に抜擢され、楊氏への贈物によって多くの官吏が便宜を得るようになる。
絮閣の一件
玄宗が梅の枝の枯れを見て梅妃を思い出し密かに召したところ、久闊を叙して一夜を共にする。しかし翌朝、楊貴妃が押しかけて閣内を探り、梅妃の鳳舄や翠鈿を見つけて激しく詰問、玄宗は言葉に窮する。梅妃は宦官の機転で密かに送り返されたが、玄宗はその宦官を咎めて斬り捨ててしまう。玄宗は動揺したまま朝議に出る。
貴妃の一時退去と復帰、三夫人の冊封
その後も貴妃は玄宗を責め立てて激怒を買い、実家の楊銛邸へ送り返される騒動となるが、高力士の取り成しと玄宗自身の未練により間もなく召し戻された。復帰後、玄宗は貴妃の姉たちを召して宴を催し、大姨を韓国夫人、次姨を虢国夫人、三姨を秦国夫人に封じた。楊氏一族は「五楊」と称されるほど権勢を振るうようになる。
楊氏の驕奢と楊国忠の台頭
五楊の邸宅には賄賂が絶えず、なかでも虢国夫人の豪奢ぶりは際立った。楊釗は財政を任されて国庫の充実を誇り、玄宗から金魚袋を賜り、名を「国忠」と改めて御史大夫・京兆尹を兼ねるまでに至る。当時、世間では「男児を生むを喜ばず女児を生むを悲しまず」という歌謡が流行ったという。
李林甫の讒獄(羅鉗吉網)
隴右節度使皇甫惟明は吐蕃を破って献捷する一方で李林甫の専横を密かに弾劾したが、玄宗に信じられなかった。折しも左相李適之・兵部侍郎張洎が林甫に警戒され、林甫は法曹の吉温・羅希奭らを使って多数を厳刑に処し「羅鉗吉網」と恐れられた。さらに林甫は楊慎矜に、太子の縁者である韋堅と皇甫惟明が太子擁立を謀ったと誣告させ、両名を左遷したうえ太子妃とも離縁させて太子を守った。李適之も辞任に追い込まれた。
柳勣の誣告と王忠嗣・楊慎矜の獄
さらに柳勣が舅の杜有鄰を「太子と結んで図讖を語った」と誣告し、林甫の命で吉温が拷問の末、杜有鄰と柳勣をともに獄死させ、太子良娣(杜氏の娘)も廃された。林甫はこれに乗じて李邕・裴敦復も羅希奭に杖殺させ、韋堅・皇甫惟明にも死を賜り、李適之は服毒自殺、王琚も逼死させられた。さらに朔方節度使王忠嗣にも謀反の疑いをかけたが、部将哥舒翰が自らの官爵を賭して弁護し一命は助かったものの左遷された。楊慎矜も林甫に嫉まれ、隋の皇族の末裔として謀反を企てたとの罪を着せられ一族もろとも処罰された(詩:李林甫が奸臣を次々に引き入れ酷吏をはびこらせたことを歎く)。林甫はこの後も楊国忠と安禄山を重用し、唐の命運を危うくしていく。
評語
天宝以後の玄宗の暗愚ぶりは甚だしい。子の妃を貴妃に立てたことは名分に反し、姦臣を首相に据えたことは賞罰の乱れを招いた。妒み深い楊玉環と、陰険な李林甫という二人がそれぞれ後宮と朝廷を私したことで、楊氏一族が栄え、林甫配下の酷吏たちも跋扈した。女と小人がここまで揃えば、国が乱れ亡びないはずがない、と結ぶ。