唐史演義隆恩を却け張果老山に帰る/盛宴を開き江梅妃技を献ず(47 卻隆恩張果老歸山 開盛宴江梅妃獻技)

武惠妃の死と太子亨の冊立

太子瑛らを死に追いやった武惠妃は、まもなく発狂したような病にかかり、三人の亡霊にうなされるように苦しんだ末に没した。玄宗は皇后の礼で葬り貞順皇后と諡した。翌開元二十六年、玄宗は高力士の勧めもあって忠王璵(後に紹、さらに亨と改名)を皇太子に立てた。

西域・北辺の情勢

突騎施可汗蘇祿は複数の妻(唐・吐蕃・突厥の公主)を得たが病で半身不随となり、部下に殺害された。その後の後継争いに唐将蓋嘉運らが介入し、西突厥は次第に衰退した。吐蕃とは和議が破れ、河西・隴右で一進一退の攻防が続いた。

張守珪の失脚と安禄山の台頭

幽州の部将が節度使張守珪の命を偽って出兵させ敗戦したことが発覚し、守珪は左遷の上まもなく病死した。代わって安禄山が平盧軍使から節度使へと急速に昇進していく。禄山の出自(母は突厥の巫女で、軋犖山の神に祈って授かった子とされる伝承)や、守珪の養子となり李林甫にも取り入って重用されていく経緯が語られる。

方士張果(張果老)の来朝と辞去

汾晋の方士張果は仙術で知られ、玄宗に召されて宮中で不思議な術(酒を飲んでも酔わず、歯を折っても生え変わるなど)を見せて驚かせた。玄宗が玉真公主との縁組を持ちかけると、張果は「公主に娶られることを畏れる」と固辞し、恒山へ帰って間もなく没した。後世、八仙の一人「張果老」として伝えられる。

改元天宝と韋堅の広運潭

玄宗は老子(玄元皇帝)の霊符が発見されたとする田同秀の上言を機に、開元三十年を天宝元年と改元、尊号を受けて官制の名称も改めた。長安令韋堅は運河を整備して広運潭を築き、盛大な船列と「得宝歌」の披露で玄宗を喜ばせ、左散騎常侍に昇進した。折しも朔方節度使王忠嗣が突厥内乱に乗じて左廂・右廂を制圧する戦果もあり、内外で祝賀が重なった。

突厥の滅亡と回紇の勃興

突厥では可汗が次々に殺害・交代する内紛が続き、唐の招撫と諸部族の攻撃により最終的に滅亡、遺臣たちは唐に降った。代わって回紇の骨力裴羅が懐仁可汗として台頭し、突厥故地に拠って勢力を広げ、以後の回紇興隆の始まりとなった。玄宗は降人を花萼楼で引見し、諸王との親睦の宴も催された(この機に、既に世を去った寧王憲への厚遇も回想される)。

江采蘋(梅妃)の入宮

神仙術に淫した玄宗は方士を重用する一方、高力士に命じて江南で美女を捜させ、莆田の江采蘋(幼くして詩才を示した才媛)を選び出して寵愛した。梅を好む彼女を玄宗は「梅妃」と呼んだ。ある宴席で梅妃が笛を吹き「驚鴻の舞」を披露して喝采を浴びたが、酔った漢王(諸王の一人)が誤って梅妃の靴を踏んだことに立腹し退席、以後駙馬楊洄の策で漢王は不問に付されるが、玄宗の梅妃への心証は微妙に陰る。楊洄はこの機に玄宗を温泉行幸に誘い、新たな美女を推挙する運びとなる(詩:新寵が旧寵に取って代わる予兆を示す)。

評語

好んで功名を誇り神仙・美色に耽る君主の常として、漢武帝もそうであったが、玄宗もまた同様である。吐蕃が退けば張果が来たり、突厥が滅べば江妃が入るというように、一見関係のない出来事が実は表裏をなしている。安穏であれば長生を願い、驕れば色を求めるのが人の常であり、外患なき国はかえって亡ぶという故事の通りである。ただし張果が公主との縁組を固辞して山に帰った点、江妃が漢王の無礼に怒って宮に帰った点はなお節度を保っており、漢代の方士や趙飛燕・趙合徳らに比べればまだましである、とする。