唐史演義張守珪、番を誘い虜首を得る/李林甫、毒計もて儲君を害す(46 張守珪誘番得虜首 李林甫毒計害儲君)
契丹の内紛と張守珪の平定
契丹は可汗が次々に代わり、実権を握る牙将の可突乾が主君李邵固を弑逆して屈烈を立て、奚とともに突厥側に寝返った。玄宗は忠王濬(後の粛宗)を河北道行軍元帥に任じたが実際には出征させず、信安王褘に討伐させて可突乾を破った。その後も可突乾が再侵したため、幽州節度使に転じた張守珪が対処し、部下の王悔の調略で契丹牙官の李過折に可突乾・屈烈を討たせて帰順させた。しかし可突乾の残党涅礼が過折を殺して一族を滅ぼし、玄宗はやむなくその涅礼をそのまま鬆漠都督に任じて事を収めた。
宇文融・王毛仲の失脚
財務手腕で登用された宇文融は同平章事となったが、驕り高ぶって信安王褘を讒言しようとして露見し、汝州刺史に左遷、のち贓罪で流罪となり途中で病死した。討逆の功臣で霍国公に列せられた王毛仲も権勢を笠に着て増長し、高力士ら宦官を軽んじたため恨みを買い、玄宗の怒りを招いて瀼州別駕に左遷のうえ、赴任途中で自尽を命じられた。以後、高力士・楊思勗ら宦官の勢力が強まっていく。
宋璟・張説の退場と韓休の直諫
玄宗は宋璟・張説を重んじたが両人とも間もなく世を去り(宋璟は開元十年致仕、後に病没)、代わって同平章事となった韓休は剛直な人物で、蕭嵩の推薦を裏切って玄宗の遊猟や宴楽にも遠慮なく諫言した。玄宗は「我痩せても天下は肥える」と述べて韓休を重んじ、宋璟もその剛直さを称えたという。
李林甫の台頭と武惠妃との結託
張説・源乾曜が没し、韓休・蕭嵩も相次いで罷免されると、裴耀卿・張九齢が宰相となり、吏部侍郎李林甫も礼部尚書・同中書門下三品に昇った。林甫は太祖の曾孫にあたるが陰険な策謀家で、亡くなった宰相裴光庭の未亡人(武三思の娘)と通じ、また高力士を通じて武惠妃に取り入った。惠妃はわが子・寿王瑁を太子に立てようとしており、林甫はその後ろ盾になることを約束して宰相の地位を得た。
太子瑛らの廃黜と賜死
寿王瑁の妃の縁者である駙馬楊洄が、生母の寵を失っていた太子瑛・鄂王瑤・光王琚の不満の言葉を武惠妃に讒言した。惠妃は玄宗の前で泣いて「太子が母子を害そうとしている」と訴え、玄宗は激怒して三人の廃嫡を決意する。張九齢は歴代の廃太子の悲劇を引いて強く諫めたため一旦は思いとどまったが、惠妃と林甫が結託して謀を重ね、ついに三人を宮中に武装させて謀反の様に見せかけさせ、玄宗を欺いて瑛・瑤・琚を庶人に落としたのち賜死させた(詩:罪なき三子が一日で殺された悲劇を歎く)。関係する外戚も連座して処罰された。物語はここで、太子の死後に武惠妃と李林甫が寿王瑁の擁立を図る局面へと続く。
なお、この間、平盧討撃使安禄山が奚契丹討伐で敗戦し張守珪に処刑を上申されたが、玄宗が助命し不問に付した経緯も描かれ、後の禍根として示唆される。
評語
契丹の内紛に乗じた可突乾の弑逆は当然討たれるべきだが、忠王は出征せず偏師で対処し、結局は招降という便法に頼った。張守珪は安禄山の敗軍を誅すべきを誅さず後患を残した。さらに玄宗は武惠妃と李林甫の奸計に惑わされ、忠臣張九齢を退けて我が子三人を骨肉相食む形で葬った。内外の奸悪が結びつき、骨肉が自ら傷つけあう様は、まさに嘆かわしい限りであるとする。