唐史演義妾の言を信じ皇后廃せらる/敵怨を叢め節使戕せらる(045 第四十四回 信妾言皇后被廢  叢敵怨節使遭戕)

王皇后と後宮の勢力図

  • 王皇后は子を産まず、玄宗との情は薄いが患難の妻として皇后位を保っていた。趙麗妃(子・嗣謙を開元2年に皇太子に立てるが、実際には嫡出でなく序列上の問題があった)、皇甫徳儀(子・嗣初)、劉才人(子・琚)ら側室の子が次々に王に封じられた。楊氏所生の嗣昇(後の粛宗)もこの頃の子である。
  • 武攸止の娘(後の武恵妃)が入宮すると、その美貌と巧みな立ち回りで玄宗の寵愛を独占し、趙麗妃らは失寵した。恵妃は王皇后を軽んじ、皇后が咎めると玄宗に讒訴し、玄宗は激怒して皇后廃止を口にしたが、皇后が結髪の情や父の恩を訴えたため、廃后は一旦棚上げされた。

武恵妃の男児出産と失意

  • 恵妃は男児(嗣一)を産むが早世、次の子(敏)も夭折、女児も早世するなど、何度も子を失った。四度目に生まれた清(後の寿王)は不吉を恐れて寧王(成器改め)妃元氏に預けられ養育された。その後も琦や公主らをもうけた。
  • 恵妃はさらに驕り、皇后への讒言を重ねた。玄宗は姜皎を召して廃后を密議したが漏洩し、姜皎は張嘉貞の弾劾で流罪となり途中で病没した。

王皇后の廃位

  • 皇后の兄・王守一は、皇后に子を得させようと僧明悟の言に従い、霹靂木に天地文と玄宗の名を刻んで身に着けさせる呪術を行わせた。これが武恵妃の密告により発覚し、「厭勝の罪」として王皇后は庶人に落とされ、王守一は賜死。皇后はまもなく病没した。玄宗も後に悔い、一品の礼で葬った。

武恵妃立后の頓挫

  • 恵妃を皇后に立てようとする議に対し、御史潘好礼が上書して反対(武三思・武延秀ら悪名高い一族の縁者であること、嫡庶の分を乱すことへの懸念)し、群臣の多くも反対したため実現しなかった。

泰山封禅と張説の失脚・復権

  • 張説は封禅を建議し、突厥毗伽可汗の使者も同行させて開元13年に泰山で封禅の儀を行った。恩賞の偏りや従軍将士への薄い賞与などで不満が生じた。
  • 財政窮乏の中、宇文融の増収策を張説が抑制したため、宇文融は李林甫と結んで張説を弾劾。高力士への贈賄もあり張説は死罪を免れ、集賢院学士として国史編纂に回された。劉知幾・呉兢の史書編纂の逸話も挿話として語られる。

吐蕃・突厥との攻防

  • 吐蕃が敵国の礼を用いたことに玄宗は憤り、張説は持久策を進言したが容れられず、王君㚟が対吐蕃強硬策を主導。緒戦は勝利したが、王君㚟の父が吐蕃に捕らわれる不運もあり、最終的に王君㚟は回紇など四部族の恨みを買って部下に暗殺された。
  • その後、信安王褘・蕭嵩・張守珪・杜賓客らが各地で吐蕃を撃破し、石堡城(振武軍と改称)を回復するなど河隴の情勢は好転。最終的に吐蕃は謝罪し、開元21年、赤嶺を境界として唐蕃間に界碑が立てられ和議が成った。

評語

武則天・武恵妃といずれも武氏出身の女性が王皇后を死に至らしめたことを対比し、玄宗が武后の害毒を目の当たりにしながらなお武氏の遺女に溺れたことを「色の害」として批判する。また高宗・玄宗の類似(好色・好功名・封禅・佞臣の言を信じる点)を指摘し、張説の諫言を用いず吐蕃との戦を長引かせた玄宗の判断を惜しみ、「英武」と称される玄宗の実像に疑問を投げかけて結ぶ。