唐史演義良相に任じ美政開元に紀す/辺防を閲し文臣叛虜を平ぐ(044 第四十三回 任良相美政紀開元 閱邊防文臣平叛虜)
突厥默啜の滅亡と睿宗の崩御
- 突厥默啜可汗はなおも求婚を続けたが唐は延ばし続けた。葛邏祿など諸部が相次いで唐に降った。默啜は拔曳固部を撃破した帰途、散卒の頡質略に襲われ討たれ、首級が唐に献じられた。折しも太上皇睿宗が崩御(在位2年、太上皇として約4年、55歳)し、天聖真皇帝と諡され橋陵に葬られた。
姚崇の宰相ぶりと蝗害対策
- 姚崇のもとで黄門監盧懐慎は「伴食宰相」と呼ばれるほど何事も姚崇に譲った。姚崇は自らを「救時の良相」と評した。
- 山東の蝗害に際し、迷信で捕殺を拒む世論や汴州刺史倪若水の抵抗を退け、姚崇は積極的な捕蝗を命じて被害を最小限に抑えた。
盧懐慎の死と源乾曜・宋璟の登用
- 盧懐慎は清廉なまま病没し、遺言で宋璟らを推挙した。姚崇は後に子弟の不正(趙誨事件)で寵を失い、宋璟を後任に推薦して自ら退いた。
- 宋璟は厳正な人柄で蘇頲と協調して開元の善政を支え、皇子・公主の待遇の公平を説き、王皇后の父の墳墓の高さについても制度を守るよう諫めるなど筋を通した。
宋璟の失脚と姚崇の死
- 開元8年、宋璟は悪銭の整理を厳格に進めたが、監察御史蕭隠之の過酷な取り締まりや獄中の冤罪の噂(俳優の風刺劇として玄宗の耳に入る)により、宋璟・蘇頲は罷免され源乾曜・張嘉貞が後任となった。張嘉貞は側近の登用で権勢を招き、この頃から開元の政治は次第に弛緩し始めたとされる。
- 姚崇は死に臨み、政敵の張説に自らの墓碑銘を書かせる策を子に授けた(珍玩を並べて張説の物欲を誘い、碑文を書かせてから贈与する)。計画通り張説は称賛の碑文を書いてしまい、後で気づいて悔いたが手遅れであった。姚崇は72歳で没し文献と諡された。
張説の辺境経営と府兵制の改革
- 張説は朔方節度大使として突厥・党項の諸部を撫慰し、暾欲谷や康待賓の反乱を鎮圧するなど武功を挙げた。辺兵二十余万を削減して民に還すことを進言し、府兵制を廃して募兵(彉騎)による長従宿衛の制に改めた。
- あわせて十道を十五道に再編し、辺境に朔方・河西・河東・隴右・安西・北庭・范陽・平盧・剣南・嶺南の十節度使を置いた経緯が述べられる。これにより辺境の防備は強化されたが、後の藩鎮強大化・尾大不掉の弊害の伏線ともなった。
評語
開元初年の姚崇・宋璟・蘇頲・源乾曜・張説ら名相の治績を総括する。姚崇は才ある一方で策謀を弄した点を批判しつつも、真偽はともかく史書に見える逸話として紹介し、宋璟を宰相の正道とする。張説は文武両面で功があったとし、「政は人にあり」の理を示す回として結ぶ。開元十二年の王皇后廃立という玄宗最初の失徳が次回の主題として予告される。