唐史演義夜宴を規り特に回波辞を献ず/毒餅を進め神龍殿に枉死す(0040 第三十九回 規夜宴特獻回波辭 進毒餅枉死神龍殿)

安楽公主の奢侈と斜封官の横行

  • 安楽公主は上官婉児の邸宅造営に対抗し、民田を奪って定昆池を築くなど贅を尽くした。中宗の姉妹(新都・宜城・新寧・長寧・永寿・永泰・成安の各公主)のうち、韋氏所生の長寧公主も同様に華美な邸宅を築き、夫楊慎交は球場まで設けて中宗を招いた。
  • 韋氏の妹たちや上官婉児の母鄭氏、女巫趙英児らも権勢を笠に賄賂を受け、金銭で官位を売る「斜封官」や、金で得度する僧尼が横行した。左拾遺辛替否の諫言も聞き入れられなかった。

武氏一族の対照的な生き方

  • 武平一(武士彟の子孫)は外戚抑制を自ら進んで主張した数少ない人物。武攸緒も官を捨てて嵩山に隠棲し、賜与の品もすべて返上する清廉な生き方を貫き、後に武韋一族が滅んだ際も難を免れた。

中宗の宮中戯楽

  • 景龍二年の年越しの宴で、中宗は御史大夫竇従一(懐貞)をからかい、韋氏の老乳母を「佳人」と偽って娶らせる悪ふざけを行った。従一はこれを機に阿㸙(乳母の夫)を自称し出世を図った。
  • 上元節には宮女数千人を市に見立てて公卿と交易させる遊びや、宮女による綱引き(拔河)を興じ、中宗・韋氏はこれを見物して喜んだ。

回波詞の応酬

  • 宴席で沈佺期は「回波詞」の形で官位回復を暗に願う歌を詠み、上官婉児の口添えで願いは叶えられた。俳優臧奉は「御史大夫裴談は妻を恐れる」逸話になぞらえ、中宗の恐妻ぶりを揶揄する歌を詠んだが、韋氏はこれを笑って許し褒美まで与えた。
  • 諫議大夫李景伯が節度をわきまえるよう諫める歌を詠むと中宗は不快そうにしたが、蕭至忠の取りなしで事なきを得た。

宗楚客らの専横と辺境の失策

  • 韋巨源・楊再思・宗楚客・蕭至忠・崔湜らが要職に就く一方、朝廷は佞臣に占められた。監察御史崔琬が宗楚客・紀処訥の異民族との内通・収賄を弾劾したが、中宗は両者を義兄弟に結ばせて和解させるという不可解な処理をした。
  • 実際には、宗楚客・周以悌らの介入により西方経営が混乱し、突騎施の娑葛との抗争で唐軍が敗れ、御史中丞馮嘉賓が殺され安西が一時失陥するなど失策が続いた。郭元振の弁明で事態はようやく収拾され、娑葛は赦されて欽化可汗に冊封されたが、宗楚客らの収賄は不問に付された。
  • 一方、朔方道大総管張仁亶は突厥默啜を退け、拂雲祠一帯を奪って三受降城を築き、突厥の南下を防いだ。

官職売買と婉児の庇護

  • 鄭愔・崔湜は官職売買の罪で弾劾され左遷されたが、上官婉児は愛人である崔湜のために取りなし、南郊の祭祀に際して二人を呼び戻させた。祭祀では宰相の娘たちが「斎娘」として奉仕する前代未聞の光景も見られた。

元宵の微行と定昆池行幸

  • 元宵節には中宗・韋氏・婉児らが庶民に扮して街に繰り出し、同行させた宮女の半数以上が姿を消す騒ぎとなったが不問とされた。
  • その後の梨園での拔河遊びでは、老臣韋巨源・唐休璟が転倒する様を中宗らが笑いものにするなど、宴楽は度を越していった。定昆池行幸では黄門侍郎李日知が民の労苦を暗に諫める詩を詠んだ。
  • 隆慶池行幸の際には、相王旦の五子の邸に「帝王の気」があるとの噂を気にして厭勝の宴を催し、国子祭酒祝欽明が醜態を演じてまで韋氏に取り入るなど、朝廷の風紀は乱れ切っていた。この頃、散騎常侍馬秦客・光禄少卿楊均が韋氏に取り入り、私通するようになった。

中宗の毒殺

  • 定州人郎岌や許州参軍燕欽融が韋氏・宗楚客らの謀反の兆しを訴えたが、郎岌は杖殺され、燕欽融は宗楚客の命で殺害された。中宗はこれに怒りを見せたが、韋氏は自らの密通が露見することを恐れ、馬秦客・楊均と共謀して毒餅を用意した。
  • 韋氏は自ら毒を仕込んだ餅を中宗に献上させ、中宗はこれを食して急死した(享年五十五)。中宗は即位からわずか一月で廃されて十四年幽閉され、皇太子として六年を経てようやく復位したが、在位六年で毒殺されるという数奇な生涯を閉じた。

評語

  • 詩は本来、諷刺や規勧の意を込めるべきものだが、本回に記された回波詞のうち、李景伯の諫めの歌のみが古風を保ち、沈佺期の媚びへつらいや臧奉の恐妻歌は下品の極みであると批判する。
  • 「修身斉家治国」の道理を引き、中宗が身を修めず家を斉えられなかった結果、佞臣と僧道が朝廷と都市に満ち、ついに毒餅で命を落とすに至ったのは必然であると総括し、この後の展開(李隆基の挙兵)がなければ唐はもはや救われなかったであろうと結ぶ。