唐史演義首悪を誅せんと太子兵を興す/文臣に狎れ上官寵を恃む(0039 第三十八回 誅首惡太子興兵  狎文臣上官恃寵)

武三思の党与「五狗」の跋扈

  • 五王を除いた武三思は権勢絶頂となり、周利用・冉祖雍・李俊・宋之遜・姚紹之の「五狗」をはじめ、宗楚客・宗晋卿・紀処訥・鄭愔・崔湜ら多くの取り巻きを重用した。紀処訥は妻を三思に差し出して太府卿に任じられるなど、廉恥は地に落ちた。三思は「自分に味方する者が善人、逆らう者が悪人」と公言し、追従の徒を集めた。

太子重俊の立太子と安楽公主の野心

  • 相王旦・太平公主の進言で衛王重俊が太子に立てられたが、韋氏所生でないため韋氏は不満を抱いた。安楽公主(李裹児)は自ら皇太女になることを望み、魏元忠に一蹴されて憤慨したが、開府置官を許されて矛を収めた。
  • 安楽公主とその夫武崇訓は太子を軽んじ「奴」呼ばわりし、太子はこれを恨んだ。太子は魏元忠・李多祚に討逆を相談したが、元忠は用心深くなっており積極的には加担しなかった。酸棗尉袁楚客は元忠に「朝廷の十失」を挙げた書状を送り、太子・外戚・宦官・僧道の乱脈、専横な官職任用などを指摘して奮起を促した。

太子重俊の挙兵と武三思父子誅殺

  • 元忠は消極的な姿勢を崩さなかったが、李多祚は羽林兵三百余を発して太子を奉じ、武三思の邸を襲撃。三思・崇訓父子は殺され、一族もことごとく討たれた。
  • 太子は続いて宮城を目指し玄武門(後の神武門)方面へ進軍。中宗・韋氏・上官婉児・安楽公主らは動揺し、婉児の進言で玄武門楼に登って籠城した。李多祚は楼下で「三思の党与の首謀を差し出せば兵を退く」と迫り、上官婉児の名を名指しして引き渡しを要求したが、婉児は涙ながらに弁明して難を逃れた。
  • 楊思勖が中宗の命で出撃し、李多祚の女婿野呼利を斬り倒すと形勢は逆転。中宗が羽林兵に「今すぐ多祚を討てば罪を問わない」と呼びかけると兵は寝返り、李多祚以下の首謀者は次々討たれ、太子重俊は逃走したが最終的に山中で従者に殺され、首級を献じられた。

事件後の処分と論功

  • 太子重俊の首は太廟に供えられ三思の霊にも捧げられた後、市中に晒された。成王李千里父子や李多祚らの一族は誅殺され、李千里は蝮氏に改姓させられた。
  • 韋氏・婉児は残党の徹底追及を求めたが、大理卿鄭惟忠の諫めで止められた。景龍と改元し、武三思には太尉・梁宣王が追贈され、武崇訓にも王号が贈られた。安楽公主は亡夫崇訓の墓を永泰郡主の先例に倣い「陵」と呼ばせようとしたが、給事中盧粲の反対で沙汰止みとなった。
  • 武承嗣の子武延秀は、崇訓の従兄弟として生前から安楽公主と関係を持っていたが、崇訓の死後は公然と公主と通じるようになり、中宗はこれを黙認して延秀を公主に娶わせ、太常卿・温国公とした。韋氏もまた延秀の美貌に惹かれ、私通する乱脈ぶりであった。

相王・太平公主への讒言と魏元忠の失脚

  • 安楽公主・宗楚客らは相王・太平公主を重俊の謀反に連座させようと画策したが、蕭至忠の諫言で中宗は取り上げなかった。
  • 魏元忠は「息子が重俊に加担した」として弾劾され、辞官を願い出た。宗楚客らはなおも追及を続け、中宗も一時は毅然と拒んだが、繰り返しの弾劾に押され最終的に元忠は左遷され、赴任途中で病没した(享年七十余)。のちに睿宗の代に追贈、玄宗の代に諡「貞」を賜った。

宮廷の乱脈と上官婉児の栄華

  • 景龍二年、韋后の衣に五色雲が現れたという偽りの祥瑞が奏上され、中宗はこれを喜んで大赦・恩賞を行った。太史迦葉志忠や太常少卿鄭愔らは韋后を古の賢妃になぞらえる詩歌や符命を献じ、右補闕趙延禧も牽強付会の瑞祥説を唱えて重用された。
  • 上官婉児は三思の死後、代わりの相手を求めて修文館を設け文人を集め、韋氏・安楽公主らも交えて詩宴に興じた。中宗・韋氏の詩は実際には婉児の代作であったが、文臣たちは追従してこれを称賛した。婉児はやがて兵部侍郎崔湜と関係を持ち、私邸の造営まで中宗に許され、宴の詩を評定するなど権勢を振るった。

評語

  • 武三思・武崇訓のような淫悪・驕慢な者は誅殺されて当然だが、父君の意を経ずに専断で兵を挙げ、しかも后妃の引き渡しを迫った太子重俊の行為は、たとえ動機が正しくとも「専権」「兵をもって君父に迫る」罪を免れないと論じる。
  • 三思父子を討った後、そのまま兵を収めて処罰を待つべきであったのに、山中で命を落としたのは「死に余りあり」との評もありうると指摘。
  • この事件を機に韋氏・上官婉児らがかえって勢いを強め、母子で男を共有し、文臣と密通するなど宮中の乱脈が極まったことを、太子の性急な挙兵が生んだ反動として捉え、「小事を忍ばざれば大謀を乱す」との古訓を裏付けるものと結ぶ。