唐史演義韋氏を討ち宿穢を掃清す/譙王を平げ叛徒を駢戮す(041 第四 十回 討韋氏掃清宿穢  平譙王駢戮叛徒)

韋氏の専権と臨朝

  • 韋氏は中宗を毒殺した後、これを秘して発喪せず、諸宰相を禁中に召し、府兵五万を徴して京城に屯守させ、駙馬都尉の韋捷・韋濯や衛尉卿の韋璿ら韋一族に兵を分領させた。
  • 宗楚客は相王旦を忌み、嫂叔の礼を口実に相王の参政を退けるよう韋氏に勧めた。韋氏は少帝重茂を立てる遺詔を出させたのち、自ら臨朝摂政し、改元・大赦して韋温に内外の兵馬を統括させた。
  • さらに三日後、重茂を即位させ、韋氏を皇太后、妃陸氏を皇后とした。宗楚客・武延秀・葉靜能らは武后の先例に倣うよう韋氏に勧め、韋氏子弟に南北軍を統率させようとし、嗣皇(少帝)を害し相王・太平公主を除く陰謀を進めた。

李隆基の挙兵

  • 相王旦の三子・隆基(後の玄宗)は英武で騎射・音律に通じ、韋武の専横が国患となることを見抜き、密かに豪傑と結び、羽林軍(万騎)や太平公主・薛崇暕・鐘紹京・劉幽求らと討逆を謀った。
  • 長安令韋播が万騎を虐待して怨みを買っていたため、果毅校尉の葛福順・陳元禮が隆基に訴え、大衆は討逆に踊躍した。隆基は「事が成れば父王に福を帰し、成らねば自ら殉じて父を累わせない」として、事前に相王へ知らせぬまま決行することにした。
  • 夜、葛福順が羽林営に斬り込み韋璿・韋播らを討ち、首級を掲げて諸韋誅殺を布告。羽林軍はこれに従い、隆基らは南苑門から進んで太極殿に迫った。

韋氏一党の誅滅

  • 韋氏は逃げ込んだ飛騎営で殺され、遺体は両断された。武延秀・尚宮賀婁氏も捕らえられ斬られた。
  • 安楽公主は鏡の前で殺され、上官婉児は相王参政の草制を示して助命を乞うたが、隆基は「淫乱の婢を赦せば後悔する」として斬らせた。
  • 韋温・宗楚客・宗晋卿・趙履温(民衆に八つ裂きにされた)・韋巨源・韋捷・韋濯・韋元徼・紀処訥・葉靜能・張嘉福らが次々に誅殺され、韋氏一族は皆殺しとなった。韋后は庶人に落とされ市に晒された。
  • 事後、成器を宋王、隆基を平王とし、薛崇暕・鐘紹京・劉幽求ら功臣に恩賞を加えた。

相王の即位(睿宗)

  • 太平公主が少帝の譲位を促し、劉幽求らの進言で相王がついに即位を承諾。宋王成器・衡陽王成義・巴陵王隆范・彭城王隆業らに官を授け、平王隆基を殿中監・同中書門下三品とした。
  • 太極殿での禅譲の儀では、太平公主が少帝重茂を座から引き下ろし、相王が即位(睿宗)。重茂は温王に戻された。
  • 立太子の議で、宋王成器は「国家安ければ嫡長を先にし、危うければ功有る者を先にすべし」と自ら平王隆基に位を譲る意を示し、劉幽求の後押しもあって隆基が皇太子に立てられた。
  • 武三思・武崇訓の爵諡を追削して棺を暴き、章懐太子賢を追諡するなど韋武時代の措置を是正し、姚元之(姚崇)・宋璟を登用、改元して景雲とした。

譙王重福の乱とその失敗

  • 集州刺史に左遷された譙王重福は、洛陽人張霊均の煽動を受け、鄭愔とも結んで洛陽で挙兵し帝位を僭称しようとしたが、計画は杜撰であった。
  • 洛陽の官吏の探索を受け、屯営兵に阻まれて重福は逃げ込んだ渠で溺死。張霊均は捕らえられ、女装して逃亡を図った鄭愔も見破られて捕縛され、両名とも処刑された。
  • 中宗は定陵に葬られ、韋庶人に代えて故英王妃趙氏を和思順聖皇后として招魂合葬。姚崇・宋璟が政を執り、貞観・永徽の遺風と称された。

太平公主と東宮の確執

  • 太平公主は睿宗の信任を頼みに国政に容喙し、当初は若い太子隆基を軽んじていたが、次第にその英武を憚り、太子廃立の流言を広めた。
  • 睿宗は劉妃・竇妃(隆基の生母、非命に死す)を皇后に追封し、太平公主の思惑を退けた。公主はさらに東宮への内変の噂を流し、韋安石を誘おうとしたが拒まれ、睿宗にも見抜かれた。
  • 宋璟・姚元之は睿宗に、宋王・豳王の出任や太平公主の東都安置を進言。睿宗は妹を思って躊躇しつつも、術士の予言を口実とした張説・姚元之の進言を容れ、太子監国を命じ、太平公主を蒲州に安置した。

評語

女子や佞人に功を立てさせてはならない、功があれば必ず乱の因となる、と論じる。太平公主は韋武の亜流であり、韋氏誅滅の際に大した功もないのに、少帝を引き下ろした一事で恃みとし、後に東宮を讒言して内変を謀った。牝鶏が晨を告げてはならぬ理はここにも表れており、太平公主に罪があるのはもちろん、彼女を増長させた睿宗にも咎があると結ぶ。