唐史演義第二十八回 西羌を伐ち連番敗績す/東宮を易え両次冤を蒙る (伐西羌連番敗績 易東宮兩次蒙冤)
大非川の敗戦
- 吐蕃国相禄東贊の子・欽陵らが西域十八州を陥落させ、唐は薛仁貴を邏娑道行軍大総管として派遣した。
- 薛仁貴は烏海への急進策を立てたが、副将郭待封が命令に従わず輜重を失陥、吐蕃の大軍に迎撃されて唐軍は大敗。仁貴は和議を結んで撤退した。
- 高宗は薛仁貴・郭待封・阿史那道真を除名処分とした。
吐蕃の伸張と東方情勢
- 吐蕃は吐谷渾故地を併呑した。唐は東方(高麗遺民・新羅の反乱)に対応するため西方を後回しにした。
- 劉仁軌・李謹行らが新羅の反乱を平定し、李謹行の妻・劉氏も城を守り抜いて燕国夫人に封じられた。
- 高蔵(旧高麗王)・扶餘隆(旧百済王)は帰国させられたが、高蔵は謀反を疑われ召還され、扶餘隆も新羅を恐れて内地に退き、高麗・百済の遺民は大方新羅に併合された。
許敬宗の死とその後
- 劉仁軌は洮河鎮守使として吐蕃に備える一方、許敬宗が病死した。生前の悪行から「繆」の諡を巡り論争となり、最終的に「恭」に改められた。
李敬玄・劉審禮の吐蕃遠征失敗
- 仁軌と不仲な李敬玄が仁軌の推挙(実は厄介払い)で洮河道大総管に任じられるが、用兵に暗く、劉審禮を吐蕃に孤立させて捕虜とし戦死させた。
- 敬玄自身も包囲されるが黒歯常之の夜襲で救われ撤退した。婁師徳が敗残兵をまとめ、吐蕃の贊婆と和議を結んだ。
武氏による姉妹・親族の毒殺
- 武氏は姉の韓国夫人、その娘の魏国夫人が高宗の寵を得たことに嫉妬し、いずれも毒殺した。従兄の惟良・懐運も濡れ衣で処刑された。
- 武氏の甥・賀蘭敏之も後に失脚し配流先で死んだ。
太子弘の急死と太子賢の廃立
- 太子弘は蕭淑妃の遺児二公主の縁組を進言するなど母武氏と対立し、武氏に毒殺されたとされる(享年二十四)。
- 太子妃・裴氏も間もなく病死した。
- 次の太子・賢は聡明だったが、明崇儼の讒言や皂甲(武具)事件を口実に武氏に廃され、庶人として巴州に流された。
評語
- 薛仁貴が吐蕃に敗れたことで彼が統帥の器でないことが分かり、李敬玄はさらに論外とする。
- 劉仁軌が私怨で李敬玄を推挙し失敗させたことも純臣とは言い難いと評す。
- 武氏が同族・実子にまで残虐であったことを強く非難し、唐室の衰運の大きな転機がこの回にあると総括する。