唐史演義第二十七回 三箭を発し薛礼天山を定む/六師を統べ李勣高麗を滅ぼす (發三箭薛禮定天山 統六師李勣滅高麗)
鉄勒討伐と薛仁貴の「三箭定天山」
- 回紇など鉄勒九姓が反乱し、鄭仁泰・薛仁貴らが討伐に向かった。
- 薛仁貴は三本の矢で敵の勇士を次々射倒して敵を降伏させた(「将軍三箭定天山」の故事)。降兵を谷に突き落として殺す残忍さも記される。
- 鄭仁泰は降兵の掠奪など失政を犯し、契苾何力が改めて鉄勒諸部を安撫した。瀚海都護府を回紇に移し安北都護府と改称した。
西突厥の内紛と吐蕃の勃興
- 阿史那彌射・歩真の対立に乗じ、蘇海政が彌射を偽って謀殺し、部族の離反を招いた。
- 吐蕃は禄東贊のもとで強盛化し吐谷渾を圧迫。唐は調停に失敗し吐蕃との関係が悪化した(唐と吐蕃の禍いの始まりとされる)。
- 西突厥の阿史那都支は表向き唐に服しつつ吐蕃と結び、来済は庭州で寡兵のまま討ち死にした。
李義府の失脚
- 李義府は権勢を恃み売官などの不正を重ね、高宗の不興を買って除名・流罪となった。
泰山封禅と張公芸の「忍」字
- 高宗・武氏は泰山で封禅の儀を行い、麟徳から乾封に改元した。
- 途上、張公芸の九世同居の家に立ち寄り、「忍」の字百個を献上され感心する逸話が記される。
- 孔子廟・老子廟にも参拝し、老子を「太上元元皇帝」と尊称した。
高麗の内紛と李勣の遠征
- 高麗の泉蓋蘇文の死後、長子男生と弟男建・男産が権力争いとなり、男生は唐に救援を求めた。
- 李勣が遼東道行軍大総管として出征、契苾何力・龐同善・薛仁貴らと連携し新城を落とし各城を攻略した。
- 薛仁貴は寡兵で扶餘城を陥落させるなど活躍した。
- 賈言忠が「高麗必ず平らぐ」と高宗に上奏し、李勣を含む諸将を評した。
- 李勣は平壤城を包囲、高麗王高蔵は降伏し、男建は捕らえられて高麗は滅亡した。安東都護府を置き、薛仁貴が鎮守した。
李勣の死
- 李勣は総章二年に病没した。臨終に弟・李弼へ子孫の戒めを託し、高宗は哀悼して太尉を追贈した。
評語
- 薛仁貴は勇将であり、李勣は「将を将たらしむる」才があったからこそその功が生きたと評される。逆に鄭仁泰のような凡将では仁貴の功も生かされなかったとする。
- ただし李勣が私心から高宗の廃后を助長したことは唐室滅亡の一因となったとし、史書がその不学を譏るのも故なしとしないと結ぶ。