唐史演義第二十三回 嬌娃を出だし英主升遐す/姦情を逞しくし帝女変を謀る (出嬌娃英主升遐 逞姦情帝女謀變)
突厥車鼻可汗の経緯
- 車鼻可汗(本名・斛勒)は頡利可汗滅亡後に薛延陀への服属と離反を経て金山北麓で自立し、勢力を拡大していた。太宗の召還に応じず、太宗は高侃を派遣して討伐に向かわせた。
太宗発病と武媚娘への接近
- 高侃出陣の頃、太宗は体調を崩し、皇太子・治に代理聴政を命じた。見舞いに訪れた太子は、太宗の傍らに仕える武媚娘の艶やかさに目を奪われ、以後たびたび見舞いに通ううちに互いに惹かれ合うが、太宗の目を憚りまだ深い関係には至らなかった。
李世勣の左遷と李靖の死
- 病から一時回復した太宗だが、なお衰えを自覚し、太子への遺言として李世勣を疊州都督に左遷する。世勣は太宗の意図(新帝の代で恩を売って重用させる布石)を察して即座に赴任し、太宗は太子に「即位後は世勣を僕射に取り立てよ」と言い含めた。
- 同じ頃、衛国公・李靖が七十九歳で重病となり、太宗自ら見舞うが間もなく死去。追贈と諡が与えられた。
太宗重篤、太子と武媚娘の急接近
- 太宗は痢疾を患い重体となる。太子と武媚娘は看病のため終始そばに付き添い、ある夜、白髪を気にする太子に媚娘が言い寄る場面から二人は急速に接近し、太子は媚娘の室に忍び込んで契りを結んだ。
太宗の崩御
- 太宗は媚娘に「わが死後どうするか」と問い、媚娘は「出家して長く陛下の冥福を祈りたい」と答える。太宗はこれを許し、退出を命じた。太子は動揺しつつ媚娘と別れの言葉を交わし、玉佩を形見に渡す。
- 太宗は長孫無忌・褚遂良を呼び「太子は仁孝、よく補佐せよ」と遺言し、武才人には二度と会わぬよう宮外へ出す指示を出したのち、まもなく息を引き取った(享年五十三)。褚遂良が起草した遺詔により長孫無忌らが後事を託された。
高宗即位と論功
- 長孫無忌の指示で行宮から都に太宗の遺骸を移し、太子治が即位(高宗)。大赦を行い、李世勣を左僕射・司空に昇進させ、太宗の諱を避けて「世勣」から「勣」と改名させた。太宗は貞観二十三年五月に崩じ、八月に昭陵に葬られた。
永徽改元と王皇后冊立、車鼻可汗の捕縛
- 翌年、永徽と改元し、同安長公主の姪孫女・王氏を皇后に立てる。褚遂良・于志寧・張行成・高季輔らが要職に就き、善政が行われた。秋には高侃が車鼻可汗を捕らえて凱旋し、東突厥諸部はことごとく唐の内臣となった。
西突厥の離反――阿史那賀魯の挙兵
- 西突厥の阿史那賀魯は唐に帰順していたが、太宗の崩御に乗じて自立を図り、庭州を攻めて金嶺城・蒲類県を陥落させた。高宗は梁建方・契苾何力らを派遣して討伐にあたらせ、緒戦では処月部の朱邪孤注を撃破するが、朝廷の急な召還命令により建方らは撤兵させられた。
房遺愛・高陽公主の謀反発覚
- その召還の理由は、房玄齢の子・房遺愛とその妻・高陽公主が謀反を企てたためであった。高陽公主は驕慢な素行で知られ、僧侶・辯機との密通が発覚した際には太宗が辯機を処刑し、公主付きの侍女らも粛清されていた。太宗没後も公主は放縦を続け、方士や僧を出入りさせ、さらに房遺愛や薛万徹・柴令武らと共謀して荊王李元景を擁立し高宗を廃そうとする陰謀を企てた。長孫無忌の内偵によりこの謀反は露見し、多くの関係者が処罰されることとなった。
評語
- 著者は、太子が父の側女に手を出し、公主が僧と密通したことを並べ、「祖宗の教えが正しくなければ子孫がそれを真似てさらに甚だしくする」と論じる。太子の姦通は武媚娘が誘ったからこそ起きたとし、公主の姦通も夫・房遺愛の監督不行き届きに原因があるとして、武媚娘と房遺愛の二人にそれとなく非難の矛先を向けている。