唐史演義第二十二回 天竺に使し兵を調え叛酋を擒う/亀茲を征し穴に入り名王を虜にす (使天竺調兵擒叛酋 征龜茲入穴虜名王)
第二次高麗遠征と準備
- 廷臣の提案により、高麗を疲弊させるため小部隊による繰り返しの侵攻策に転換。牛進達・李海岸を海路、李世勣を陸路に分けて派遣し、南蘇城・石城・積利城などで戦果を上げたが決定打とはならず撤収した。太宗はさらに大規模な水軍を準備し、貞観二十二年、新羅では善徳女王が没して真徳が後を継いだ。
龜茲問題と徐恵の諫言
- 西域の亀茲国が長らく朝貢を怠っていたことに太宗は立腹し、討伐を検討する。廷臣が諫言をためらう中、女官の徐恵(充容)が上疏し、「力による服従より徳による服従が優る。東の高麗、西の亀茲と両面で兵を興せば民力を消耗するばかり」と説いた。秦の始皇帝・晋の武帝の例を引き、拡張が却って滅亡を招いた故事を挙げて自重を促す内容であった。
- 太宗はこの上疏に感心し、龜茲遠征を一旦見合わせた。折しも薛万徹が高麗の鴨緑水方面で戦果を上げたとの報が届き、これも切り上げさせた。
王玄策の天竺遠征
- 唐僧・玄奘が天竺で見聞したことを機に、天竺(中天竺王・尸羅逸多)は唐に使者を送り交流していたが、尸羅逸多の死後に簒奪者・阿羅那順が即位し、唐使・王玄策の使節団を襲撃した。玄策は吐蕃・泥婆羅の援軍を得て反撃し、阿羅那順を捕らえて長安に凱旋させた。太宗は玄策を朝散大夫に任じ、阿羅那順は死罪を免れた。
方士への傾倒と武才人をめぐる予言
- 阿羅那順に随行していた二百余歳と称する方士・那邏邇娑婆寐が長生の術を説き、太宗はこれに強く惹かれて丹薬を服用するようになる。晩年の太宗は色を好み、方士への傾倒も重なって不老長生への執着を深めた。
- この頃、巢刺王妃と隋の蕭皇后が相次いで死去して太宗を悲しませ、さらに太白星の異変や「唐三世の後、女主武王が天下を取る」との予言(秘記)が流布し、太宗は「武」の字を持つ李君羨を疑って処刑した。太史・李淳風に真偽を問うと「すでに宮中にいる」と告げられるが、武媚娘その人への疑いは向けられなかった。
房玄齢、病床から東征中止を諫める
- 太宗は再度高麗東征を計画するが、留守を託された房玄齢は重病の床から「知足知止」を説く上表を子に書かせて奉り、これ以上の高麗遠征は損失が大きいと諫めた。太宗は感じ入るが、まもなく玄齢は没した。
龜茲遠征
- 東征を止めない一方、阿史那社爾を主将に龜茲遠征を敢行。焉耆国を降し、亀茲王・訶黎布失畢を撥換城に追い詰めて捕らえる。しかしその隙に国相・那利が西突厥の援軍を得て都城を急襲し、安西都護・郭孝恪が戦死する事態となったが、唐軍はこれを撃退して那利も生け捕りにし、亀茲は平定された。
突厥車鼻可汗への出兵準備
- 太宗は龜茲王らの謝罪を受けて赦免し、残る突厥の車鼻可汗討伐を計画。冬季を避けて翌春の出兵を決めた。
評語
- 著者は、徐恵の諫言も房玄齢の諫言も太宗の好戦の志を抑えられなかったことを嘆く。王玄策の天竺遠征や阿史那社爾の亀茲遠征は「已むを得ずして已まざる挙」であり、玄策は唐兵を損なわずに功を上げた点で人傑と評価される一方、破格の昇進は得られなかった。対して蕃将らの西征では郭孝恪をはじめ多くの将兵が命を落としており、「一将功成りて万骨枯る」との感慨を記す。方士への傾倒についても暗に諷刺している。