唐史演義第二十一回 東略功無く全軍国に帰る/北荒尽く服し群酋朝に入る (東略無功全軍歸國 北荒盡服群酋入朝)

白袍将軍・薛仁貴の由来

  • 安市城の戦いで先陣を切った白袍の将は薛仁貴(本名は礼)。竜門の農家出身で、妻・柳氏の勧めで従軍を決意し、賊に囲まれた郎将・劉君邛を単騎で救出したことで武名を上げ、この東征でさらに太宗に見出された。

高延寿・高恵真の降伏と安市城攻略方針

  • 高延寿・高恵真は退路を断たれて降伏し、麾下の酋長は唐の武職を与えられ内地に移された。太宗は北山を駐蹕山と改名して戦功を刻んだ。
  • 安市城は頑強に抵抗を続け、太宗は激怒するが、李世勣が主張する「まず安市を落とすべき」との策と、降将の高延寿・高恵真が勧める「烏骨城を経て平壌へ直進すべき」との策が対立。長孫無忌の慎重論もあり、太宗は結局安市城への攻城を継続することにした。
  • 江夏王道宗が築いた土山が崩れて逆に高麗軍に奪われる失態が起き、道宗は処罰を免れたが、指揮を怠った裨将・傅伏愛は斬られた。以後も城は落ちず、冬を迎えて兵糧も尽きかけたため、太宗は安市城主の健闘を称えて布を与え、撤退を決めた。

撤退と将士の労苦

  • 遼沢の悪路や渤海での大雪・暴風により将士は疲弊し、道中で命を落とす者も出た。この東征全体で十城を落とし七万人を移住させたが、四万人余りを討ち取った代わりに二千の将士を失い、軍馬も多くを失った。太宗は「魏徴が生きていれば、この遠征を止めていただろう」と悔い、魏徴の墓に使者を送って弔った。薛仁貴には格別の言葉をかけて労った。

帰途の政争――劉洎と張亮の死

  • 太子との定州での再会ののち、太宗は発病。侍中・劉洎が「上体を憂う」と漏らした言葉が誣告され、太宗の怒りを買って自尽を命じられた(讒言者は褚遂良との説あり)。太宗の病がやや癒えて帰京すると、刑部尚書・張亮も謀反の疑いで処刑され、太宗は後にこれを悔いたという。

貞観二十年――高麗の謝罪と薛延陀の内紛

  • 貞観二十年、高麗が謝罪と美女献上を申し出るが太宗はこれを拒否し、再征を計画するも薛延陀の内乱が優先課題となる。真珠可汗の死後、庶子の曳莽と嫡子の抜灼が対立し、抜灼は曳莽を殺して即位(多弥可汗)。太宗の東征中の隙を突いて侵入するが、唐軍に撃退された。

薛延陀の滅亡と鉄勒諸部の帰順

  • 回紇など諸部も薛延陀を攻め、多弥可汗は敗死。唐は江夏王道宗・阿史那社爾・執失思力・契苾何力・薛万徹・張倹らを分遣して薛延陀を討伐。真珠可汗の甥・咄摩支が伊特勿失可汗として一時再興を図るが、李世勣の遠征で降伏させられた。

天可汗号の奉呈

  • 回紇以下十一姓の諸部が唐に帰属を願い出て、太宗は霊州まで赴いて謁見。諸部の使者は「天至尊を天可汗と仰ぎたい」と願い出て、太宗は喜んで詩を作り記念とした。以後、瀚海府・金微府など各部に府州が置かれ、宴を賜り、「参天可汗道」の開設や貂皮の貢納も約された。

燕然都護府の設置と唐の全盛

  • 燕然都護府を置いて李素立を都護とし、恩信をもって諸部を治めた。鉄勒北部の骨利乾や西域の結骨部も朝貢し、唐は元旦朝賀に数百千の異民族が参列する全盛期を迎えた。太宗は「漢武帝の武力による経略よりも、徳による懐柔の方が優る」と誇るが、なお再び高麗を征しようとする意欲を見せる。

評語

  • 太宗ほどの英主が高麗遠征では安市城の下で頓挫したことについて、著者は「親征という美名の下、実は将士も皇帝に万一があってはと及び腰になり、大胆な用兵ができなかったためではないか」と論じる。李世勣・長孫無忌が薛延陀討伐では迅速に大功を上げたことと対比し、親征は名目こそ立派だが実際には弊害が多かったと指摘。また劉洎・張亮の粛清についても、太宗の喜怒が度を失っていたことの表れだとしている。